ゐないことがわかり、大慌てに慌てた。そんなら、やつぱりキユレルが偉いかと云へば、「あんなもの」といふ奴がゐる。ポルト・リツシユの人気も侮り難い。新進のものを漁りだすと、いろんな影響がわかつて面白い。ミユツセ、ルナアルの陰然たる勢力をすでに感じた。ベツクの姿も大きく映つて来た。イプセンの亡霊が、シエイクスピヤの亡霊と手を組んで歩いてゐる。モリエールの哄笑が忽ち耳をつんざく。巴里人の眼を追つてそつちを見ると、クウルトリイヌといふ好々爺が小声で群衆に話しかけてゐる。その傍らで、ブリユウが、腐りきつて頬杖をついてゐる。
 芝居は、本を読んで行かないと三分の一もわからない。見物が笑ふ時、こつちが笑へないくらゐ淋しいものはない。が、それでも、舞台を見て、はじめて作品のよさがわかるといふ気がした。当時の僕の、脚本の読み方が如何に覚束ないものであつたかといふ証拠になるだけではない。俳優といふものが、如何に脚本を活かすかといふことをはじめて学んだのである。舞台にあるものは、脚本にあるものと同一物であつて、しかも全く別個の物であるといふ演劇の真髄に触れ得たのは一年後である。
 ヴイユウ・コロンビエ座のコポオにやつと僕の意を通ずる決心をした。研究生の資格で木戸御免の許しを得、隣の下宿屋に陣取つて毎日学校と舞台裏へ通つた。仏蘭西の芝居を理解するためには、何よりも西洋演劇の伝統をつかまねばならぬと感じた。それと同時に、さういふ伝統を生んだ文化、並に、仏蘭西の土壌について、考へねばならぬことが沢山あつた。舞台を通じて生活を見ることでは不十分なのである。生活を通じて舞台を感じる努力をした。その結果、一時代の演劇は、その時代の文化的生活人の手によつて形づくられねばならぬことを痛感した。作者は勿論、俳優が何よりもさうでなければならぬ。俳優であるが故に、民衆の偶像であつてはならないのだ。常人以上の人間的魅力――叡智と感受性の豊富さ――によつて民衆の心を捉へ得る人物なるが故に、一段高き舞台に立ち得るのでなければならぬ。近代の演劇とはかくの如きものであるといふ信念に到達した。それを除いた一切の「演劇的興行物」は近代芸術の名に価しないのである。従つて、日本には、まだ「新しい芝居」は生れてゐないと、僕は早くも断定を下してしまつた。
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 一九二十年から二十三年にかけての巴里は、凡そ五十年に
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