たしか、おやぢの乗馬用の鞭のお古だつたと記憶する。私は、あの、節の細かい竹の棒を、ステッキとも杖ともつかず、無垢な十六の手で打ち振りながら、夏の耶馬渓を遡つた。

 それから、二十三まで、ステッキに遠ざかつた。
 Fさんの農園を見せて貰つた帰りに、雄勝川の橋の上で、アッと云ふ間もなく、真二つに折れた紅葉のステッキ!
 シモンヌ夫人の『※[#「雛」の「隹」に代えて「鳥」、第4水準2−94−31]鷲《レグロン》』に魂を奪はれ、サラ・ベルナアル座のボックスへ忘れて来た黒檀まがひの安物、思ひ出なればこそ心残りである。

 西洋のある女が、日本人のステッキの持ち方は、盲が杖をつくのと同じだと云つた。私は、盲の杖と間違はれないやうなステッキを選ぶより外ないと思つた。

 ニイスで、ドゥヴィルで、メラノで、私は、若い女の手に細身のステッキが、チヤンと落ちついてゐるのを見た。ただし少くとも、それらの女は、ものを云ふ時に、口を動かしてはならない。

 去年の夏、房州で病を得て倒れ、「絶対安静」三ヶ月の後、奇蹟的にふらふらと起ち上つた時[#「起ち上つた時」は底本では「起ち上った時」]、私は、ステッキならぬ杖の必要を感じた。東京からわざわざ見舞に来てくれた友だちに、何か頼みたい衝動――さういふ衝動を諸君は感じますか――を感じ、東京から、軽くて太いステッキを一本送つてくれるやうに頼んだ。友は快く引受けてくれた。数日後送り届けられたのが、最近まで、つまり、コンヴァレッサンスの時期を通じて、私の、ともすれば怠りがちな散歩を、朝夕促してくれた台湾スネエク(?)である。鋲の頭に似た水牛の冷たい柄も、疲れの早い手に快い触感を伝へた。館山の病院の庭をつき、茅ヶ崎の書斎を繞る松山をつき、阿佐ヶ谷の宿のあたり、郊外の霜解けの道をつき、春は田端のヴィルドラック歓迎会をつき、夏に入つて[#「入つて」は底本では「入って」]護国寺の墓地をつき、やがて、暑を避けて軽井沢に赴く途中までついた。そして、遂にその途中どこかにつき忘れて来たとは何たる不覚ぞや! しかし、その友は、私が、そのステッキの代りに、健康を取り戻したことを喜んでくれるだらう。
 私が、今ここでこの一文を綴つてゐる時、その友は、すぐそこの、汀続きの熱海の旅宿で、例の魅力ある小説の想を練つてゐる筈である。

 ステッキで思ひ出すのは、チャアリイ・チャップリンもさることながら、ピレネエ山麓のポオに、あのぽかぽかする三月と四月とを過した時のこと、ある夕暮の公園で知り合つたカナダ生れの女批評家ミス・Wと、その仏語教師C君――われわれは、ペエル・ゴリオ風に、この中年の好紳士を、ムッシウ・コンシャルドラマと呼び習はした――この二人のことである。ミス・Wの餅を頬張つたやうな仏蘭西語を、C君の註訳入りで聴いてゐると、彼女は、イプセンの崇拝者であり、タゴオルの研究家であつた。そして、C君同様、肺を病んで、この南仏へ療養の旅を思ひ立つたのであつた。そして、逓信省の一官吏なるC君を、ただそれが仏人なるが故に、仏語教師として朝夕その身辺に侍らせてゐるのであるといふことがわかつた。
「このムッシウは、私のやうな若い女にとつて、甚だ安全な方であります」と附け加へた時、私は、眼を見張つてC君の顔を見たが、その時、このバルザック流の人物は、年ごろ持ち古したらしい無趣味そのもののやうなステッキの上に、剃りたての頤をのせて、思ひがけなく太い口髭の下から、「メフィエェ・ヴゥ」(どうだか、あてになりませんよ)と云つた。そしてから、そのステッキを、今度は、撃剣の手真似で前の方へ突き出して、「わたしのからだは、大事なからだです。どうして、どうして……」と、その剣を、大きな楡の木の幹に突き立てる身構えで、「わたしの妻、わたしの子供たち、それから、わたしの友だち……いや、いや、まだ、これで、うつかり死ねませんよ」と叫んだ。
 ミス・Wのかすれた笑ひ声……。仏蘭西には売つてないやうなパラソルの先で、コンシャルドラマのステッキをはたと叩いて、「自分が人のために、大事な人間だと思つてゐる人を、わたし軽蔑します」とやつたものである。この時、C君の骨張つた手から危ふく滑り落ちようとしたステッキを、私は今でも、なほ自分の手のうちに感じている。



底本:「日本の名随筆91 時」作品社
   1990(平成2)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「岸田國士全集 第九巻」新潮社
   1955(昭和30)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野 晋
校正:多羅尾伴内
2004年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozo
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング