染物屋のチャーちやん」とだけしか覚えていない。
元日が元日らしいためには、どんな条件が必要かといえば、門松・トソ・雑煮というような形式はさておき、私の経験によれば、まず何よりも、家族が多少改まつて勢ぞろいをするということである。
家族の人数は多いほどよろしい。
老人も子供もいるという風景が望ましい。それも、みな達者で、仲よくしているに越したことはない。
そのうちの誰かが、遠方から馳せ参じたという事情があれば、これはもう、正月には持つて来いの景物である。
そこで、今年の元日を最も元日らしく迎えたのは、言うまでもなく、ソ連や中共からの帰還者を交えた日本の何百かの家族だということになろう。
私の両親は紀州生れであつたから、正月料理も関西流であつた。ところが、私の代になると、家内の実家の鳥取米子流にしてもよかつたのを、強いて習慣に拘泥しないわれわれ一流のやり方で、関東、関西をチャンポンにし、時には中国式や欧米風を交えた、珍無類の料理を正月の膳にのせた。
十年前に母親を失つた娘たち二人は、毎年感心に正月を覚えていて、平生は別々に暮しているのを、元日の朝は、ちやんと私のところへ集つて来る。
一昨年は北軽井沢、昨年は伊豆三津浜に、今年は、この小田原の仮寓に、親子三人、例の如く元日の朝の食卓に向つている。(筈である……)
ただ今、私が住んでいる小田原の家というのは、隣りの缶詰工場の異臭と怪音を除けば、斎藤緑雨のいわゆる「海よし、山よし、天気よし」の三拍子そろつた恰好の住宅である。「天気よし」という表現は、緑雨らしくて私には面白い。
緑雨といえば明治文壇の奇才で、その「あられ酒」は私の愛読書であつたから、彼が病を得て三年間こゝで療養生活を送つたことを聞くと、不思議な廻り合せという気もする。
まつたく、小田原というところは、冬の晴れた日に、そのよさを発揮する土地である。病床にある緑雨が「海よし、山よし」とまず風景をたたえ、ついで一と息に、「天気よし」と、明るく暖かい太陽の恩恵に感謝の叫びをあげたところ、私も同感である。
小田原は、今の私にとつて、実にぴつたりした申分のない土地である。
この程度の小都市は、私に適度の休息と刺激とを与えてくれる。
必要なものはほとんどなんでもあるが、余計なものはそれほどない。
魚の新しいことはもちろん、海岸としては野菜も豊
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