触れるやうなことになつたのである。一作家の妻として、繋累の多い家庭の主婦として、二人の娘の母として、彼女がどういふ重荷を背負ひ、どんな疑ひを疑ひ、どんな憂ひを憂へたかといふことが、走り書きの文字の間にありありと読みとれる。そして、その印象は、私の個人的な感情をゆすぶるばかりでなく、なにかもつと広く、もつと厳粛なものとして響くやうに思はれてしやうがない。
 結婚前の日記がわりに細かく、丹念に続けられてゐるのに反し、結婚後は、ずつと飛びとびに、それも心覚えの程度にしかつけられてゐないのも、私にはうなづかれる。
 かうして、妻の日記を手がかりに、私は、一人の女の生涯について考へはじめた。
 家内の葬儀をすましたあとの、私および私一家の空虚と照しあはせて、彼女の存在の意味が日一日と強く心に感じられるにつけても、私は彼女の死を機縁として、この重大な時代を生きつゝある日本の女性に、なにか言はねばならぬことがあると信ずるに至つたのである。

 私たちは、どちらかといふと晩婚の方であつた。家内が二十六、私は三十七であつた。夫婦といふもののねうちは、二人がつくる歴史の重みにあるのだと私はかねがね思つてゐる。従つて、一緒に暮した年月の長いこと、ことに結婚前よりも結婚後の生活経験の方が豊かであることは、夫婦をして真の夫婦たらしめる根本的条件の一つである。私たちの家庭生活において、私はともかく、家内が一番気を遣つてゐたと思はれることは、早く、共通の流儀を発見したいといふことであつた。それといふのが、さて一緒になつてみると、めいめいに、いはゆる「自由」の名において書生流の好みと習慣とを身につけ、それを無意識にではあるが相手に押しつけようとするところがあつた。この傾向に対して、これではいかぬといふことに気づき、早く云へば、夫唱婦随の真精神をつとに実行に遷さうと努力したのは彼女であつた。
 大正末期から昭和の初頭にかけての社会的風潮は、女性の思想的立場をも著しく動揺させた。当時の女書生気質とでもいふべきものは、今日からみると、よほど特色があるやうに思はれる。女性の解放とか自覚とかいふことが大いに叫ばれ、叫ばれるのみならず、社会的現象として幾多の実例が示された。イプセンの「人形の家」が日本の家庭の出来事としても受けとられさうな気勢を示す一方、婦人参政権運動が大いに同志を集め、産児制限の主張とか、友
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