的」の折紙をつけられる滑稽な時代を現出せしめた。「何かをなすためには何かであらねばならぬ」ことなど、演劇の世界では、誰も考へなくなつてゐると見える。

 ところで、「新劇」といふものは妙なもので、これは文学の方なら、さしづめ純文学に相当するものだと思つてゐたところが、少し内幕をのぞいてみると、たゞ、抱負がさうであるといふだけで、仕事の態度も、修業の道程も、凡そ「純粋さ」からは遠く、さうあることの不可能を自分で許し、興行は一種のスペキユレイシヨンだといふ観念に支配されてゐること、営利劇場の当事者とさほど変りはないのだといふことに気がついた。
 これではいけないのである。「新劇」は断じてスペキユレイシヨンであつてはならぬ。なぜなら、新劇で当らないといふことは、俳優をも同時に饑ゑさせることだからである。元来俳優といふ職業は、腕さへできれば、きつと食へるやうになれる恵まれた職業だからである。芸術家のなかでも、俳優は、その点特別な存在であつて、さうであればこそ、舞台であゝいふことがやれるのである。云はゞ新劇とは、有望で未熟な俳優と才能があつて職業化してゐない作者とが、相協力して各々自分の野心を遂
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