マニズムが更に頭と尻尾との噛み合ひに終つた形である。これが、民族対世界の奇怪な同士討だとしたら、誰が喝采などしてくれよう。
 軍部と議会との渡り合ひを昨日今日われ/\はどんな気持で眺めたであらう。どつちかへ加担するものがあつたら、私はとくとその理由を訊ねたい。国民は単なる論理やジエスチユアに迷はされてはならぬ。真実を語るのはたゞ、己れを無にした精神の火花だけである。
 こゝで引合ひに出すのは、聊か「月遅れ」に違ひないが、横光利一氏帰朝第一回作品「厨房日記」を再読し、これに対する諸家の批評をのぞいて、私は、感慨に耽つた。これは作者自身のいふ「現代日本の知性」が欧羅巴的なものに立ち向ふひとつのポーズを鮮かに描いてみせた作品の好適例であるが、私は敢てこの皮肉な作品の意識的な構図を分析しようとは思はない。なぜなら、それはもはや横光風ともいふべき詩学の究極を示すに過ぎないのであつて、それよりも、私がこゝで考へたいのは、同氏をしてかゝる主題を選ばせた動機が、親しく見聞した欧羅巴の心理にあるのではなくて、帰朝と同時に触れ得た文壇的雰囲気にあるのだといふことである。そして横光氏の例の鋭い感受性はその雰囲気の稜線を見事に発見した。が、それと同時に一方の斜面への急滑走が開始されたのである。こゝにもつまり私のいはうとする「共通の観念」の省略があつた。
 作家横光の感懐は、かの独得な措辞法のなかにはないのであつて、作品の真実が、なほかつ、われ/\の胸にふれる所以は、実に、作者が所謂「欧羅巴の知性」に眼を据ゑてゐるところにあるのである。

       二

 林房雄氏の説によると、近頃、文壇の一角に「新日本主義」ともいふべきものが擡頭しつゝあるとのことである。ロマンチシスト林氏の命名であるから、この名前は、勿論、ロマンチツクに解すべきであるが、それにしても、これは、「新世界主義」といふ別名を与へるにふさはしいものではないかどうか? かうなると、日本フアツシヨの宣言めいてよろしくないといふなら、もう少し命名を延しておく方がよろしからう。
 私は私流に、あるひとつの傾向を指摘することができる。例によつて、そのなかに含まれる個々のものを、特異な面によつて区別するよりも、共通な面で捉へることに現在はより以上興味をもつといふ建前のもとにである。
 どうせ大ざつぱないひ方しかできぬが、それは、文学者と
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