か、「分別臭い調子」とか、「軽薄な調子」とか、いろいろ云ふが、これはその時々の、又は単純な感情的色彩を指す場合もあり、一方、その人の性格、気風を表はしてゐるやうな時にも使ふのであつて、これこそ、寧ろ、「言葉の生命」であるとも云へるのである。例へば、
[#ここから1字下げ]
「昨日、久し振りで銀ブラをしたの。そしたら、あの風でせう。前を向いてなんか歩けないわ。袂をかうして、顔へあてたまゝ、蟹みたいに横歩きをしてたでせう。そん時、いきなり、肩を叩かれたもんで、あたし、びつくりしたわ。誰だとお思ひになつて? あなたのお兄さん……」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな話をするにしても、或は、真面目に訴へる如く、或は、自嘲的に戯談めかして、或は、快活にうれしさを包まず、同じことを、同じ心持で云へるのである。が、それ以上に、これだけの言葉に、さまざまな「魅力」を添へる要素がある。技巧以上の技巧とも云ふべきものであらう。一例を挙げれば、機智の閃きである。機智は軽薄の中にもあり、慎しさの中にもある。後者が前者に優つてゐることは云ふまでもあるまい。
 要するに、「上品な言葉遣ひ」必ずしも上品でなく、「詩的な言葉」必ずしも、話して美しくなく、「六ヶ敷い云ひ廻し」必ずしも教養を物語るものではない。東京弁、必ずしも文化的でなく、方言、必ずしも滑稽ではないのである。
 その人が、その場合に[#「その場合に」に傍点]、最もその人らしく[#「その人らしく」に傍点]、率直に、且つ、巧みに「思つてゐること」を云ひ表はし得た言葉が、常に最も魅力ある言葉であること、殆ど疑ふ余地はない。
 かういふ言葉の訓練は、現代日本の情勢では至極困難なことであるが、一般に、少なくとも教養ある婦人の間に、それが行はれなければ、「言葉の文化」が何時までも向上する筈はない。



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「婦人公論 第十九年六月号」
   1934(昭和9)年6月1日発行
初出:「婦人公論 第十九年六月号」
   1934(昭和9)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング