生れて来る。つまり、文章が文学に繋がるやうに、「語られる言葉」は話術、または雄弁術、殊に演劇の白に繋がるのである。
ところで、さういふ専門的なことは別にして、日常われわれの使用する言葉についていへば、そこにもやはり文化生活を営むものにとつて、必要な「言葉の訓練」があり、この訓練が個人々々の言葉遣ひ、言葉の調子、言葉の魅力を生むことになるのである。
随つて、ある人物の使ふ言葉は、どんなに不用意に使はれても、それはその人のいつか身に著けた言葉であつて、肉体に伴ふ表情のやうなものなのである。
われわれはまづ家庭で最初の言葉を教へられ、次に年齢に応じて、境遇経験を異にする友だちから知らず識らず言葉をうつされ、第三に学校で教科書等を通じて、いはゆる標準語を修得するのである。かうして丁年に達する頃には、ほゞ「その人の言葉」なるものが出来上るのであるが、それから後と雖も、社会に出て、さまざまな影響のもとに言葉の内容・色彩が複雑になり、またそれだけ独特な「味」をもつやうになつて来る。「話をしてみると、その人柄が分る」といふのはつまりかういふわけだからである。
さて、それなら、どういふ言葉を
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