出てゐないものであり、さういふ観方をしてゐるものがまだ多いから、日本の新しい芝居はなかなか生れて来ない。

 新しい戯曲は、その思想的内容もさることながら、また、主題の文学的価値もさることながら、第一に――と云つては語弊もあらうが――少くとも、新しい戯曲なるが故に、どこか旧い戯曲と異る一点を、その様式上の進化に求めたいと思ふ。その進化とは、いふまでもなく、本質に即した進化でなければならない。作家も、批評家も、俳優も、舞台監督も、劇場経営者も(僕は公平であることに努める)そして、殊に一般観客も、新しい戯曲の標準をここにおくことによつて、新しい演劇の将来が決定されるのである。
 僕は近頃、日本の現代戯曲を読みながら、一寸興味のある問題にぶつかつた。それは、これらの戯曲の作者を先づ二種類に分けることができる。甲の群は、早く云へば、どんな俳優が演じても相当の効果を挙げ得る戯曲を書く作家である。乙の群は、それと同じ俳優が演じたのでは割の悪い戯曲を書く作家である。言ひ換へれば、甲は、俳優が良ければ良いに越したことはないが、少しへたな役者でも、それほど致命的結果を見ずに済むのに反して、乙は、良い俳優が演つて、初めて効果を挙げることができるが、少しへたな役者にかかつたら、すつかりぶちこはされるといふ――さういふ違ひがあるのである。
 そこで、この二つの種類の作家について、どういふことが云へるか。
「あの作家の書いたあの作品は、確かに傑作だ。あんなへたな役者がやつても、あれだけ面白い。ああなると、舞台とか俳優とかは問題でなくなるんだね」
 なるほど、この言葉には真理がありさうだ。
 それでは
「あの作家の書いたあの作品は、あんなへたな役者にやらすべきものぢやない。まるで、佳いところを滅茶苦茶にされてしまつてる。やつぱり、あの素晴らしい場面は、それだけの役者でなければやりこなせないんだね。あの人物の性格からして、普通の役者ぢや、どうしたつて出しきれないよ」
 これも、一応尤もな議論らしい。
 何れも、作者にとつては、有難い、好意に満ちた批評であるが、この結果は、ある種の観客に云はせれば、また違つた観方として現はれるかも知れない。即ち、
 甲の場合は――「面白いね、役者は素人だつていふが、なかなかやるぢやないか……。これなら、どこへ出したつて恥かしくないや」
 乙の場合には――「なんだい
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