るパニョオルの諷刺劇である。
この作家は最初からブウルヴァアルに躍り出たので、その出世作「トパアズ」は、先月帝劇で翻案上演されたが、巴里の見物を狂喜させ、世界各国で評判をとつたこの愉快なるヴォオドビルも、日本の観客は、冷然としてこれを迎へ、屡々欠伸を噛み殺してゐたやうである。
この脚本を松竹に推薦した私は、このことで幾分責任を感じなければならぬわけであるが、しかし、私には、私の云ひ分があり、この文章の結論としては、甚だ便利なことであるから、今、この問題に触れてみることにする。
この「トパアズ」といふ作品は、所謂高級な作品ではなく、日本の見物を可なり甘く見ても、十分、その興味を惹き得る通俗喜劇であるが、その面白さはどこにあるかといへば、決して、筋や趣向にだけあるのではなく、さうかといつて、それほど奇抜な思想や巧妙な会話が特色であるとも思へない。要するに現代生活の裏面を、痛快に、やや意地悪く暴露、戯画化した、剽軽で図々しく、辛辣で愛嬌のあるその作品のトオンが、何よりも現代人の嗜好に投じたと見るべきであらう。
然るに、かういふトオンは、作者の稟質にもよるのだが、これに舞台的生命感を盛るためには、是非とも、西洋劇の伝統たる「心理的リズム」の演技化を必要とするのである。日本劇の伝統には、厳密な意味での心理的要素はなく、従つて、俳優の心理表現は、単純で類型的なのである。
故に、かういふ脚本を上演する場合、日本の俳優は、「そのままでは」使へないのであつて、井上ほどの「心理的俳優」でさへ、主人公トパアズの役柄を、彼として最も不利な方向に変形し、その演技も亦、この種の脚本にあつて最も避くべき一つの型に陥つてゐたのである。
その他の俳優に至つては、何れも、白《せりふ》の陰翳を逸し、思ひきりその効果を歪めてゐるばかりでなく、各人物の性格からいつても、名前は同じだが原作にないやうな人物になつてをり、折角のコントラストを台なしにしてしまつてゐるのである。
私は、この上演の失敗を、誰の罪に帰するかといへば、第一に興行者の罪に帰するのであるが、なぜかといへば、これだけ「信用のできる」作品を手に入れながら、この機会に、せめて、原作を完全に近く活かす手段を講じておかなかつたのが抑も手落ちだからである。
その手段とは何かといへば、翻案者に十分の時間を与へることが、その一つである。次に、
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