たくないためばかりではないか。
私は、決して、専門の批評家や、その道の研究者を揶揄する考へは毛頭ない。飽くまでも、「一般の読者」を標準にして云つてゐるのだ。
さて、なぜこんなことを云ひ出したかといへば、日本に生れ、多少新しい芸術的教養を受け、しかも、演劇といふものを何かの動機で好きになつた人、又は、娯楽の一つとして自分の趣味に適ふ芝居を求めてゐる人があつたら、それは実に不幸な人だといふ前提をしたいからだ。
幸ひに、今日では娯楽の種類も殖え、芝居でなければならんといふほどの人は殆どあるまいから、この不幸といふ言葉は、直ちにぴんと来ないかもしれない。それは仕方がない。しかし、いま、映画といふもの、野球といふもの、ダンスといふものまでが、不意に「禁止」にでもなつて、わが国から姿を消したら、当分は不幸を嘆ずる人が多からう。一度その味を占めたからだ。ところが、芝居だけは、少くとも、「現代の演劇」に限つて、わが国の人々は、多く、まだその「味」を識らずにゐる。味はせる人も、店もないせゐである。よその国にあるものならなんでもある今日の日本に、「芝居」――勿論時代と共に遷る芝居だけが、なぜないのか
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