といふものは、甚だ狭く、且つ、安定してないのだ。
 そこで、考へなければならぬことは、現在のままで行くと、日本の芝居は、早晩滅びるといふことだ。なぜなら、劇場に足を向けない人が次第に多くなり、劇場並に俳優は、その理由を正確に認識することができず、一時的の現象に目がくらんで、舞台は漸次堕落の方向をとり、遂に、「芝居でないもの」が劇場を占領することになることは明らかだからである。
 これまでわが国で発表された脚本の種類を分けてみると、第一、芸術的純粋さのために、その出来栄は兎も角、現在の商業劇場では全く上演不可能と思はれるもの、第二に、芸術的要素はありながら、一般の劇場でもやつてやれないことはないと思はれるやうなもの、第三に、全く劇場側の註文に応じて、所謂興行価値(?)のみをねらつたものと、大体この三つであると思ふ。ところで、今日の状態から推せば、第一、第三のものだけが、違つた意味で存在理由を認められ、第二のものは、次第に書き手が少くなるのではないかと思ふ。なぜなら、これこそ、誰しも注意を払はず、従つて、需要も少く、これによつて「身を立てる」ことができない有様だからだ。然るに、また西洋の側であるが、「芸術的」であるといふことと、「興行価値」があるといふことを、今日、どう区別してゐるかといふに、決して、日本の興行者の区別するやうに、その二つを、全然反対なものと解してはゐないやうだ。だから、大ていの劇場主は、「興行価値」なるものを頭におく時、作品が相当「芸術的」であつても、一向苦にしないのである。要するに見物は、芸術的なものをも、舞台に求めてゐるのだし、元来、興行価値そのものも、作品の特殊な内容形式によつて生れるものだといふことを知つてゐるからだ。つまり、寧ろ、「芸術的」な要素に、何が加へられてあるかを問題として、上演脚本を選ぶのである。従つて、脚本作者は、自分の芸術的天分に応じ、精いつぱいの力で、調子を下げるなどといふことは露ほども考へず、ただ「面白いもの」を書かうとする。この場合、その作者にとつて、「面白い」といふことは、いふまでもなく、「芸術的であると同時に興行価値がある」といふ意味なのだ。
 現在の日本では、「芸術的」といふことが、殆んど「六かしい」ことといふ意味に解され、また、実際、「面白くない」といふ意味にも解されすぎてゐる。さういふ「芸術的」も、あるにはあるであらうが、この誤解といへば誤解が、あらゆる方面から、今日の芝居を不振にし、下落させ、前途を暗くさせてゐる。商業劇場は、あまりに見物の「芸術慾」を無視し、新劇のグルウプが、昂然として見物の「疲労」を顧慮しない習慣はこれに原因するのだ。現在、その何れもが掴んでゐると信じる観客も、重ねて云ふが、近い将来に於て、劇場に背を向けるであらうし、新しい観客層は、断じて、現在の芝居に近づかうとはすまい。早く云へば、日本にも、改造、中央公論、乃至文芸春秋級の劇場が二つや三つあつても、もう今日では早くないと思ふがどうであらう。勿論、そこで、この三誌の創作欄に活字として発表されるやうな戯曲が、どしどし上演されなければならぬといふ意味ではない。恐らく、さういふ劇場向きの戯曲といふものは、今日まで現はれた戯曲の中、極めて少数であらうと思ふ。(一九三二・一)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「改造 第十五巻第一号」
   1933(昭和8)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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