試みに仏蘭西に例をとらう。巴里には現在六十余りの芝居小屋があり、そのうち歌劇やレヴュウをやつてゐるものを除き、まづざつと三十の小屋で、芝居といへる芝居をやつてゐる。更に分けると、三つは国立劇場で、古典劇と当代の大家新進中芸術的ではあるが、晦渋でない作家の作品を厳選して上演し、これが一国演劇文化の本流を代表するものと見做されてゐる。また、前衛派《アヴァン・ギャルト》と称せられる劇団の本拠となつてゐるものが三つ四つある。ここでは、主として、国立劇場にも迎へられず、従つて一般大衆には難解であり、しかしながら、「明日の演劇」に何物かを与へるといふやうな作家の紹介、又は、既に定評ある作家の忘れられようとしてゐる作品の新演出などを特色とするもので、所謂、ただの「芝居好き」くらゐでは歯の立たないものである。残りの二十四五、大は三千人から小は四五百人を容れる小屋小屋、これにも、その贅沢味と芸術味による格式品位の差があつて、その上、趣味的に云つて色とりどりといふわけである。それゆゑ、誰でも、自分の教養と嗜好と懐ろ具合とによつて、それぞれの選択ができ、勢ひ自分の贔屓役者が、自分の軽蔑してゐる作家の作品を演ずるなどといふことは、先づ有り得ないと見ていいのだ。
 第一、古典劇をやるにしても、その割合は、巴里全体を通じて、一晩に、僅か二つ、多くて五つだ。その他は、悉く現代劇、しかも、わが国の新派劇程度のものは、どんなけちな劇場でも、決してやつてゐない。仮に、もう一層悪趣味なものがあつたにしろ、その悪趣味に交る「新鮮さ」を見逃してはならない。何が新鮮か。思ひつきがである。舞台の言葉がである。見た目がである。一歩譲つて、新鮮味更になしといふ奴でも、少くとも、旧くはないのだ。つまり、「現代の生活」から生れたものなのだ。
 日本の芝居が、遅々として進まず、芸術的にも、風俗史的にも、旧態依然たる有様は、抑も何に基因するかといふ問題は、実に私も屡々――寧ろ常に――述べてゐるので、また今それを繰り返す気にはならぬが、結局、総ての劇場が、同一観客層――近代的教養とは没交渉な一階級――を相手に、いつまでも経営方針を立ててゐるからである。偶々新劇団と称するものがあつても、これは、その撰択する脚本の種類範囲からいつて、外国の前衛劇に近いものであるか、または、あまりに素人劇の幼稚さを出でないために、その観客層
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