づニコラに扮した東屋三郎氏に満腔の讃辞を呈する。どこがいゝのか未だよくわからない、何しろ日本にもかう云ふ役者が出て来たかと思はれるやうな一種のエスプリイを持つた人のやうに思はれた。口だけでものを云つてゐないで、すばらしい瞼の働きを持つてゐる。腰のすわり方も一きは目立つてゐる。
それならばブリュンチュリイの役を演じた汐見洋氏はから駄目かと云へば決してさうではない。最も複雑な表現を要するこの役をともかくも大きな破綻なくしおうせたことは手柄である。最初の幕は非常に六ヶ敷くもあるが、未だ渾然とした表現に達してゐない。これに反して第三幕目はゆとりのある確かな演出を見せた。たゞ此の人は人並以上の頭を持つてゐるのであるが、少くとも「俳優並」の技芸的訓練を積んでほしい。殊に発音と姿勢には徹底的の工夫をすべきである。
ライナに扮する水谷八重子嬢は悲劇の主人公にもしまほしき美しさだ。いゝえ、それはわかつてゐる。彼女の持味は古典喜劇の「|オボコ娘《アンジエニユ》」である。コケットを演ずる為めには何かしら足らないものがあるやうに思はれる。――そこへゆくと芝居が芝居でなくなるのだ。
此の役はロマンチスムの運動が作り出した若い女の一つの型《タイプ》で、「オボコ」らしくて実はコケットな、どうかするといくらかサンシュエルな女なのである。たゞかう云ふ役の為めに八重子嬢が豊かな素質を持つて居ることは否むわけにはゆかない。様々な場面の様々の表現に於いて、信頼するにたる舞台監督の助言は現在の嬢にとつては必要欠くべからざるものであらうと思ふ。
カザリンに扮する室町歌江嬢は先づ第一にその演伎に統一のない事が欠点である。俳優が「第一の自己」を舞台で働かせ、「第二の自己」をしてそれを監督させることを可とする俳優技芸論に従ふとしても、「第一の自己」を働かしておいて第二の自己がぼんやりとしてゐたんではしかたがない。
それからこれは歌江嬢ばかりでなく、石川治氏についても云ひ得ることであるが、自分が云ふだけのことを云つてしまつたら彼は自分の番を間違へないやうにすればいゝと云ふやうな、それ程でもあるまいが、さう云はれても仕方がない程、相手の云ふことを馬耳東風と聞き流し、相手の口から出る一句一句に対して何等の反響を示さない「怠慢な表情」を見ると少々情なくなる。
河原侃二氏の扮するペトコフは至極愉快な人物になつてゐ
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