しての過去の一つの習癖を反省してみなければならぬと思ひます。この習癖といふのは、自分勝手に一人で自由に手足を伸すといふ習癖であります。今日まで、芸術家はいつもこの習癖を非常に尊重して来ました。しかしさういふことは、それが許される時代においてこそ馴致されて来た習癖であります。従つて、さうすることが最も自分の芸術を生み出すのに適してゐるために生れた習癖ではないと思ふのであります。たゞ、今までの時代には幸ひ、芸術家のいはゞわがまゝなかういふ習癖が許されてゐたのであります。しかし、今日日本が全く新しい形を整へて建て直されるといふ時代には、さういふ習癖を身に附けた芸術家はいろいろな点で窮屈な思ひをしなければならなくなりました。しかしこれは芸術創作の上で窮屈な思ひをするのだといふやうな錯覚を生じがちだと思ひますが、これはいままでの習癖によつて生れる文字通りの錯覚であり、誤解であらうと思ひます。例へば今まで胡坐をかいて食事する癖のあつたものが、急に膝を揃へて食事をしなければならなくなつたと致しますと、今迄と同じ食事をしながら、味が変つたやうに思ひ、食事そのものが非常に窮屈なものになり、足もしびれて来て十分に御馳走も味へないといふやうなことにもなる。もとのやうにちよつと胡坐が組んでみたくなるのであります。
 私どもがこれから一つの新しい組織の中にはひつて仕事をしなければならない場合にも、やはりこの習癖の違つた窮屈さが生ずると思ふのであります。しかしかういふ窮屈さに対して、自分の芸術活動が狭められたとか、不自由になつたとかいふやうな錯覚を起さないやうに、お互に心掛けねばならぬと思ふのであります。現に私の如きもさういふ覚悟は十分出来てゐるつもりでゐながら、やはり足がしびれてしやうがないのであります。また自分は芸術家だから組織の中にはひつて仕事をするのは嫌ひだなどゝ、ついうつかりわれわれは口にさへ出して云ふことがあります。しかし苦しければ口に出してしまふこともかまはぬと思ひますが、窮屈な膝を暫く辛抱して坐つていたゞけば、そのうちに自然と坐ることにも慣れてまゐります。さうして食事の味も以前と少しも変りなく味へるやうになると信ずるのであります。
 また、どうかすると、われわれ一代のうちにさういふ新しい習慣をすつかり身につけることはできないかも知れませぬ。その場合には、少くとも子孫に対して新しい習慣をつけさせやうとすることがわれわれ国民としての今日の義務であると思ふのであります。特に音楽の専門的な畑では、この新しい組織や習慣がどんな風なものでなければならないかといふ点については、今後忌憚なく皆様のご経験やご意見を聴かせていただきまして、れわれ文化部の担当者として十分ご相談申上げ、かつ誠意ある御協力をいたし度いと希望する次第であります。(昭和十六年五月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「会館芸術 第十巻第五号」
   1941(昭和16)年5月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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