の中から何を探さうとしてゐるのか、はつきりわからせないところ大いによし。
「主潮」同人樋口正文氏の戯曲批評はこれまでちよいちよい読んだ。作品を読むのはたしか今度が始めてゞある。「開演中」はなるほど、批評家の作品らしいところがある。まづくはない、殊に、そつ[#「そつ」に傍点]がない。これも「新時代の犠牲」をゑがいてゐる。が、危いかな、作者自身もその一人にならうとしてゐる。
「塔」の本庄桂介氏は即興曲「小春日和」においてある夫婦の生活を描き、才筆侮るべからず、たゞこの種の題材を生かすための観察の鋭さがない。そして殊に心境の清らかさに欠けてゐる。
「錬金道士」の岩瀬虎治氏は「生きる日」において、文科大学生気質の一面を描いてゐる。文科大学生ならばたれでも書ける程度のもの。これは侮つていふのではない、何かしら光つたものを特にこの作者に求める。
ぼくは高田保氏に期待するところが大である。「虚無思想」といふ気味の悪い雑誌にアレゴリイの一幕「人生」を見だしたが、この高田氏の五分間喜劇は僕を一寸考へさせた。即ち、この題材なら、大概の人は二三十枚に書く。それを四五枚に圧さくした所、さすが高田氏だと思ふが、「人生」といふ標題の手前、より大なる哲学的勇気をもつて、これを一篇のソンネに縮めて欲しかつた。
「文芸春秋」唯一の戯曲、長与善郎氏作「武蔵と卜伝」は僕の興味をひいた唯一のチヨンまげ劇である。この作、必ずしも面白いわけではないが、かういふ題材はとかく常識的興味の持ち方に陥るものであるのに、この作者は、これに作者の朗らかな主観を与へてゐる。作者が、この作品に与へようとした「意味」は、さほど僕の感興をそゝるものではないが、一見、大まかに見える手法のうちに武者小路氏などと違つて、十分芸術家らしい神経を働かせ、常に完成に向つて謙虚な努力を続けてゐる作者に、僕は敬意を捧げる。
「新小説」には秋田雨雀氏の「先生抹殺」と題するフアルスがある。かういふものは、読む時次第で、をかしくもあり、をかしくもない。僕が読んだ時は、をかしくなかつた。「をかしくないといふ気持」は、変な気持である。「笑へない気持」とも違ふ。この作者は喜劇を書くべくあまりに何かを信じ過ぎてゐると思ふ。
が、これとはまた違つた意味で「中央公論」所載長谷川如是閑氏の「根管充填」といふ喜劇も「をかしくない喜劇」の一つである。この方は、を
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