のである。作者は、時として、此の皮肉の鞭をふるつて(此の鞭には、断るまでもなくモラールの鈴がついてゐる)作中のある人物を懲らすことがある。その鞭の威力は、大に読者の期待するところであるが、動もすると、それさへ『まあまあ』と云ひたくなる時がある。関口君の皮肉は、どちらかと云へば、神経的皮肉であり、アナトオル・フランス流の理智的皮肉ではない。
『女と男』でも『夜』でも、人世の皮肉を正面から取扱つてゐながら、作者自身の皮肉がその上にやゝ容赦なき嘲笑を浴せかけてゐるために、その重複が、却つて作者の企図した効果を弱めてゐる憾みがある。
 かう云ふと、関口君は甚だ冷酷な皮肉屋のやうに聞えるが、その皮肉は、常にまた自分自身の上に加へてゐる皮肉である。辛辣でゐて、ためらひ勝ちに見え、時によると、不思議なはにかみ[#「はにかみ」に傍点]をその作品のおもてに露出させてゐるのはそのためである。
 関口君の作品にかの『偉大なる皮肉屋』がもつ一種の|寛大さ《ジエネロジテ》が芽ぐむであらう時、彼は一層魅力に富む作家となるに違ひない。

 今、此の『鴉』一巻を手にして思ふことは、わが関口次郎の仕事はこれからだ――といふことである。そして、それは決して、これまでの仕事が未熟であつて、見るべきものがないといふ、そんな月並な理由によるのでなく、大抵の作家なら、その辺で一と先づ息をついて、やれやれこゝまで来れば……と気をゆるしてしまふところを、あくまでも、もう一と息、もう一と息、と新工夫を積んでゐる。その姿がはつきり、此の一巻の中に浮び出てゐるからである。
 今日まで新劇の揺籃時代とすれば、次の時代は、かくの如き作家によつて始められるのであらう。
 悲劇より喜劇へ、此の新しき傾向も亦、関口君の仕事と結びつけて考へることができる。
 少し大袈裟な例であるが、イプセンの生涯が、近代劇の進化そのものを語つてゐると云はれる如く、わが関口君の業蹟は、事によると、昭和以後日本新劇史の足跡を示すものかも知れない。――勿論、こゝで傍流作家の存在を忘れてゐるのではない。傍流、必ずしも、亜流ならず、また、小流ならず、たゞ、傍流はどこまでも傍流なのだから仕方がない。

 戯曲集『鴉』を批評する資格は僕にはないのだが、ないでは済まされないわけがある。関口君は僕の仕事の上の友である。

 関口君は、今、作劇の筆を収めて、徐ろに小説の大作に取りかゝつてゐる。此の方面での経験は、一と苦労は、やがて、新しく発表するであらう戯曲の上にどういふ形でか現はれるに違ひないが、戯曲界、当分、君の作品を見ないとなると寂寥の感が深からう。
 かゝる時、戯曲集『鴉』の刊行は、誠に意義があると云はなければならない。
 舟川未乾氏の装幀は、此の紀念すべき著書を最もよき趣味に於て飾り活かしてゐる。



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「文芸春秋 第六年第二号」
   1928(昭和3)年2月1日発行
初出:「文芸春秋 第六年第二号」
   1928(昭和3)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング