て仏蘭西の如く、戯曲が常に舞台を通じて発表され、作者の創造が作者の欲する俳優によつて遺憾なく評者の前に繰りひろげられる場合なら兎も角、わが国に於ては、少数の例外を除き、多くの新作戯曲が、殆んどすべて、活字のみによつて世に問はれなければならぬ状態にあつては、この「曖昧さ」が、一層痛切に、われわれの問題となるのである。
ここでは、しばらく、「偉大」などといふ言葉を差控へよう。今日、何人と雖もルナアル流に、「月並で、しかして、達者な」脚本作家を、現在の日本に於て二三挙げることができるだらう。そして、これらの作家は、その「月並さ」のために、所謂、「文学的批評」の圏外に置かれてゐる。私は、それを、必ずしも不当とは思はぬ。何故なら、その「月並さ」は卑俗に近く、その「達者さ」は、多く「職業的熟練」にすぎぬからだ。しかしながら、それと同時に、「月並で、しかして、優れた」戯曲を、わが文壇の批評家は見逃がしてはゐないだらうか。しかも、その優れた部分こそ、戯曲のために、「月並で」あることをさへ幾分救つてゐるのだ。この観方から、「戯曲文学」の領域が開けて来るのだと思ふが、どうであらう。
さて、かういふと、
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング