度」といふ言葉も穏かでない。功利的の意味が含まれるやうな気がする。「興味のもち方」にはいろいろある。教育家として、政治家として、社会学者として、宗教家として、心理学者として、倫理学者として、又は、新聞記者として、刑事として、商人として、隣人として、知人として、赤の他人として、又は親として、兄弟として……。が、それらの「興味のもち方」は何れも、芸術的作品の根柢にはならない。芸術家は、その何れでもあり得ると同時に、その何れでもないのである。そこには、もう一つ別に、「芸術家としての興味のもち方」がある。これにも亦、芸術家各個の素質によつて、幾通りもの「興味のもち方」があるだらう。あるものは楽観的に、あるものは悲観的に、又あるものは喜劇的に、あるものは悲劇的に、あるものは浪漫的に、あるものは現実的に、様々な「興味のもち方」をするであらうが、兎も角も、その「興味」は、一度は必ず芸術家としての心境を透して、特殊な感受性と想像力の節にかけられ、そこから「人生の新しい相」が正しく美しく浮び出てゐる。――さういふ「興味のもち方」は、芸術家の本質的天分を決定的に物語るものであつて、鑑賞者の立場から、その作品に興味がもてないとか、もてるとかいふのも、つまりは、作家と鑑賞者との隔り――芸術的天分の相違――といふことに帰着するわけなのである。
この「興味のもち方」は、作品を通じて見る時は、云ふまでもなく「表現」と離れて存在はしない。また、これだけを問題とすることも不当のやうではあるが、実際、われわれは数多の作品中に、ここまで論じつめなければ、その価値を批判することができないやうなものを見出すのである。つまり戯曲とか小説とかいふ作品そのものの価値批判を、真面目にする気にはなれないほど、さういふ作品を発表する作家の芸術的天分に疑ひをもつことが、屡々あるのである。
戯曲論としては、甚だ見当違ひのやうではあるが、戯曲作家の第一免許状を、「対話させる術」と断じたその意味に於て、私は将来の劇作家に「戯曲以前のもの」を要求するのである。(一九二五・五)
底本:「岸田國士全集19」岩波書店
1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「演劇新潮 第二年第五号」
1925(大正14)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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