上してゐるとは云へないものである。
極めて大ざつぱな論じ方のやうであるが、小説家が小説的に人生を観、戯曲家が戯曲的に人生を観るといふことがあり得るにしても、その「小説的」な観方が直ちに「芸術的」な観方でなければならぬ如く、「戯曲的」な観方が、結局「芸術的」な観方でなければならないといふ点で、現在の戯曲家乃至戯曲批評家の頭がはつきりしてゐないのではないかと思はれる。
ここで、第一、問題になるのは「戯曲的」といふ言葉である。芸術的といふ意味を含んだ「戯曲的」といふ言葉である。かうなるともう「表現」といふ問題に結びついて来るが、ここでは「表現以前」のもの、即ち劇作家の芸術的霊感が、小説家のそれと如何に違ふか、延いて、「戯曲以前のもの」は、「小説以前のもの」に対して、如何に区別さるべきか、この点について一考してみたいと思ふのである。
芸術家の立場によつて、その制作過程や、制作動機がまちまちであることは当然であるが、所謂「主題」の捉へ方に於て、劇作家が小説家と異る一点は、ただ、生命の韻律《リズム》に興味を繋ぐか、或はその姿態《ポオズ》に心を傾けるかによつて生じるのであると思ふ。これは必ずしも、人生の動的な半面或は静的な半面と一致するわけではない。一切のものに「生命」を与へることが芸術であるとすれば、そして、「生命」に絶対的静止があり得ないとすれば、人生を動的半面、静的半面に区別することさへ不可解である。
色彩にも韻律がある如く、音響にも姿態がある。運動そのもののうちに、韻律と姿態があることは云ふまでもない。時間及び空間的存在である一つの「生命」が、時間的にある姿態を示し得ると同時に、空間的にある韻律を伝へ得るものであることを知れば、小説と戯曲との分野は自ら明かになると思ふ。眼に訴へる韻律と耳に映ずる姿態、これは、小説と戯曲とを区別する根本の感覚である。
かう云ふとまた、「韻律の美」が「詩」の同義語に解せられる恐れがあるが、「詩」は形式の上から音声上の韻律を一つの要素としてゐるだけで、「詩的美」は必ずしも生命の韻律のみを伝へると限つてはゐない。この場合には、韻律とか姿態とかいふ言葉は使はない方がいいのであるが、強ひて云へば、詩は生命の最も全的にして純粋な表現である。従つて、生命の「特殊な表現」が、小説や戯曲の如く、最初から約束されてはゐないのである。あらゆる生命の韻律
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