る新帰朝者の欧洲演劇観なるものを読む機会を得た。その人は、演劇の専門的研究を目的として西洋へ渡つたらしいが、その感想のうちに、次のやうな意味のことが語られてゐる。偶々巴里で観た芝居が、仏蘭西語のわからない自分にも非常に面白く感じられ、「白」の意味は通じないに拘はらず、俳優の演技を通じて、その芝居の筋や人物の感情もほぼわかり、全体として、まづ観劇の興味を十分に満たし得たと云ひ、且つ、さういふ結果からみて、「演劇に於ける言葉の役割といふものは極めて微々たるもので、眼に愬へる要素さへ保たれてゐれば、舞台は完全な魅力を発揮するものだといふことを知つた」と大胆に云ひ切つてゐるのである。
日本の演劇専門家は、今もつて、この意見に賛成するものが多からうと思はれる。ところが、実は、この理窟には、根本的な自家撞着が含まれてゐる。
日本の芝居と西洋の芝居とは、そこが事情の違ふところで、西洋の芝居は、概して、「白」の意味がわからなくても、「白」の味がわかるのである。
「白」がわかるといふのは、この「意味」がわかるといふことだけではない、「白」はすべて、はつきりした表情をもつてゐるのである。この表情は、音声として耳に愬へるものと、俳優の顔面姿態によつて眼に愬へるものとがある。この表情は、決して「白」から独立したものではなく、広い意味に於ける「舞台の言葉」の中に含まれるものである。つまり、ある場合には、「白」の意味がわからなくつても、その表情の正確さ、豊富さ、微妙さによつて、その意味をさへ推断せしめる何物かをもつてゐ為のである。これが、「白の意味がわからなくても芝居が面白い」原因であり、西洋演劇に於ける「言葉」の役割の重要性である。
欧米の発声映画が、最初の時期にあつて、その国際性を疑はれてゐたにも拘はらず、続々熟練な舞台俳優が参加するに至つて、意外にも、言語的障碍を突破し得たといふのは、実に、この間の消息を語るものである。
わが国に於て、月並な白の類型化に腐心する「新派」、更に、七五調を基礎とする「台詞廻し」の単純な音楽的効果に満足する「歌舞伎」劇が、演劇の近代的魅力とその発展性を喪失したことは当然であるが、多少とも現代の文化とその複雑な心理的現象を描き出さうとする「新劇」の舞台が、戯曲の本質たる「言葉」の陰翳を無視し、その肉声化によつて生ずる幻象《イメエジ》の絶対的価値を等閑に附
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