医者がもう起す時分だと思ふ頃、その産婦は胸が痛むと云ひ出した。産婦の主人の希望で内科の医者が呼ばれた。医者二人の対診がはじまつた。
内科医は、軽微な肋膜と診断した。しかし当分絶対安静を必要とする旨、厳かに宣告した。
産科医は、当惑げに、産婦の経過から云へば、もう今日明日にも床上げをさせなければ、婦人科的に見て余病を起す惧れが多分にあるのだがと、説明した。
内科医は、それはさうかも知れぬが、内科的に云へば、この容態では、なんとも致し方がない、と答へた。
産科医は、それでは、極く静かに床の上に坐らせるぐらゐはどうか、と訊ねた。
内科医は、それは貴下の御自由だが、自分には責任はもてぬ、といふ。そして、附け加へる。いつたい、これ以上寝てゐると、どこがどうなるか知らんが、あとはまたあとでなんとか処置があるだらう、と。
産科医は、それがさう簡単にはいかんので、と曖昧に云ふ。
これを側で聴いてゐる産婦とその主人とは、気が気ではない。
この話を私にして聞かせた医者は、最後にかう言つた。
「そこで、その産婦のことはもう心配せんでいゝけれども、かういふことはだね、つまり、近頃の医者が、患者の生命よりも病気により多く関心をもつといふことなんだ。病気は癒した、しかし病人は殺した、といふやうな例もなくはないぜ」
あゝ、豈に医者のみならんや、である。
代理の声
近頃、必要があつて青年のために書かれた啓蒙教訓の書を十数冊集めてみた。何れもごく新しく市場に出たもので、この種の書物が各方面で如何に迎へられてゐるかがわかるのである。
いろいろな立場から、それぞれ当面の問題となる事柄について解説し、指導しようと試みてゐるのであるが、それはそれで相当に目的を達してゐるやうに思はれる。
たゞ、そのなかに、特に専門的な知識を授けるといふやうなものでなく、むしろ、青年を単に自分の後輩、或は後継者とみ、「若き国民」の指導者とでも云ふやうな態度で、その奮起と自覚を促し、専ら青年の国家的使命と新しき世界観などについて、自己の薀蓄を傾けてゐるものがいくつかある。
この種のものを通読して、先づ第一に感じることは、何処かで誰かがもう云つたやうなことばかりだといふことが一つ、第二には、言つてゐることはまことに堂々としてゐるが、ほかの誰かゞ言へば、もつと効果があるであらうに、と思はれることが一つである。
これはいつたいどういふことかと云へば、さういふことを一番言つて欲しい人が、なかなかさういふことを言はぬから、まあ、自分あたりが、といふ面持でそれが語られてゐるからだと思ふ。
もちろん自信がない筈はない。つまり、自信があることを意識しすぎてゐる者の、激しくはあるが、どこか頼りない調子が響いて来るのである。私はつくづく思ふ、その人の一と声で、青年の瞳が輝きだすやうな思想家を、隠れ家から今すぐに引き出さねばならぬ、と。
「代理」の声では青年はなかなか満足しない。そして、「代理」は、今や多きに失しやうとしてゐる。
頼もしさ
近頃、なにが一番私の心を惹くかと云へば、すべてなにによらず「頼もしい」ことである。人についてはむろんのこと、その人と無関係ではあり得ない、眼に触れ耳に聞く世の中の大小ありとあらゆる事象を通じて、私は屡々「これだ」と胸の中で叫びながら、同じ感動に快い瞬間を過すことがある。それが、この「頼もしい」といふ一点に知らず識らず私の好みが傾いてゐるのに気がついた時、凡そ、今は、誰でもさうではあるまいかといふ風に考へた。
しかし、全国民がひとしく同じ心を心としてゐる筈のこの時局下でさへ、何を「頼もしい」とするかは、ずゐぶん人によつて違ふと思ふ。
私が特に云ひたいことは、ほんたうに「頼もしい」と感じられるものが、実は衆目の集るところ、世間の表面に浮びでたところよりも、ふと何気なくあるもの、ぢつと底に沈んでゐるもののなかに、寧ろはつきり認められるといふことである。
これは私の天邪鬼が言はせるのではあるまい。ぱつと人目をひくもののなかには、もう既に「頼もしさ」のある条件が欠けてゐるやうな気さへする。
その意味で、当節、最も「頼もしく」私に思はれ、また事実、さうであるに違ひないのは、無名の戦士を筆頭として、多くは年若き同胞のうちにみられる「落ちついて順番を待つ」といふやうなあの黙々とした姿である。
また、一方、なにやかやと追ひたてられるやうな日常生活の隅々で、私は、嘗ては気のつかなかつた日本人の「不覚をとるまい」とするつゝましい「嗜み」のあらはれを、だんだん多く見かけるやうになつたことを注意したい。
文学に於ても、語られてゐること以上に、作家のさういふ表情が、文体に見事な自然さを与へはじめた。品位といふものはこゝにもあつたの
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