芸術的には仮に純粋であつても、今日まで存在した戯曲乃至演劇なるものには、当然、物語としての文学的要素――生活描写とか、筋の発展とか、人物の性格的興味とか、心理解剖とか、主題の思想的色彩とか、社会諷刺とか、風俗研究とか、様々な要素によつて、本質が生かされ、全体の価値が生じてゐるのである。それを、さういふ文学として他の部門と共通な要素をできるだけ省き、さうかといつて、詩の領域にも踏み込まず、即ち、言葉のリズムに重心をおくのでないことは勿論、所謂「抒情」の天地を逍遥するのでもなく、哲学的瞑想を歌ふのでもない。例へば、物語の発展をある程度無視し、人物の生活を描く代りに、その類型を示すに止め、言葉と表情姿態による瞬間的イメエジに、一種の心理的リズムを托し、音楽を聴く如くに、意味の連絡なき個々の観念を追つて、次第に情緒の満足と精神の喜悦に没入するといふやうな種類のものが出来上らないであらうか?
私は、ここで、計らずも、能楽を連想する。この我が国特有の古典演劇は、たしかに、今述べたやうなジャンルに近いものだと思ふ。
所謂、「純粋演劇」の抽象的模索が、明日の形に於て現はれる以前に、過去に於ける厳然
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