ヤ無一物となり、路傍に餓死するに至るまで、彼ほど世相の表裏に通じ、社会の上下を泳ぎ廻つたなら、そこから、無限の劇的霊感も受け得られようではないか。
彼はしかし、それほどの傑作を書きながら、なんとなく人が真面目に取らないのである。つまり、ボオマルシェは天才だといふのを聞いて、多くの人は、あんな巫山戯た天才がゐるかしらと思ふのである。それでも、ある批評家は、彼に「近代劇の父」といふ名を奉つた。と同時に、「ボオマルシェ、又の名はフィガロである」と宣言する。フィガロは皮肉で、敏捷で、図々しくて、マテリアリストで、磊落で、意地ツ張りで、傷み易い心の持主である。彼は、たしかに、五十年ばかり早く生れすぎたといふ説もある。「近代劇の父」といふ名はそれでわかるとして、またかうも云へるのである――「ボオマルシェはたしかに、仏蘭西劇を沈滞から救つたが、その救ひぶりがあまり鮮かであつたのは、彼の作品中に、演劇の堕落が悉く約束されてゐたからだ」と。
なるほど、近代に於ける「うまく作られた芝居」は、悉く「フィガロ」の落し胤に相違ないのである。
仏蘭西革命が総てを破壊した如く、ボオマルシェの投じた一石は、劇壇にも、一時、無気味な沈黙状態を現出させた。何人も「新しい方向」に踏み出す勇気を失つたかの如く見えた。
ただここに、ネポミュセエヌ・ルメルシェといふ、変な名前の男が、「おれが、二十二日間で、今まで芝居の畑になかつたやうなものを芝居のなかへ取り入れて御覧に入れる」と豪語し、その約束を実行した。「歴史喜劇」なる新様式を発明したのである。ところでそんなものを発明はしたが、批評家の多くは、それを「歴史でもなく喜劇でもない」と断定した。それにも拘はらず、四十年後に、スクリイブがこれに倣ひ、百年後に至り、エドモン・ロスタンが幾分、その手法を踏襲したと思はれる。
革命時代及び帝政時代は、演劇的不毛の期間であつた。が、それは、浪漫主義の陣痛期に外ならぬ。
やがて、ヴィクトオル・ユゴオ(Victor Hugo, 1802−85)が、戯曲「クロンウェル」を発表し、その序文に於て、浪漫劇の主張を振り翳した。
彼は先づ、「人生そのものは、支離滅裂にして、矛盾撞着に充てり」と云ふ。それ故、戯曲も亦、条理整然たるを要せずといふのである。次に「戯曲の革新は、第一に文体より始めざるべからず」と云ふ。彼は韻文を棄てなかつたが、詩形に若干の自由を求めた。また「長台詞を封ぜよ。人物をして自ら語らしめよ」と云つた。彼は、舞台上に人間の全貌を描き出す野心を示した。政治的英雄が同時に家庭の玩具であり、戦場の勇士が、下手な詩人でありといふ風にクロンウェルを取扱つた。その意図は兎に角、それがためにこの戯曲は上演不可能なものとなつた。その後で「マリオン・ドロルム」を書き上げたが、これは思想過激とあつて検閲が通らなかつた。一八三〇年、遂に、「エルナニ」の幕が開いた。人、これを呼んで「エルナニ」の戦ひと云ふ。それほどこの戯曲初演の当夜は、物情騒然たるものがあつた。見物席は敵味方に分れて怒号し、弥次と喝采が入り乱れた。が、最後に、浪漫主義の勝利が宣せられた。
彼ユゴオは、その実、生涯を通じて、真の劇作家となり得なかつた。詩人としての巨人的歩みにも拘はらず、戯曲に於ては、徒らに空想が言葉の虹を撒き散らすにすぎず、やうやく、ラシイヌの十二韻詩《アレクサンドラン》が、一世紀を跨いで彼のペンに蘇つたにすぎぬのである。かくて古典主義劇の残塁に馬を進めながら、彼は遥かに先輩ラシイヌに脱帽したと私は信じるのである。その少し以前に英国俳優の一団が、海を越えて、巴里へ乗込んだことを特記せねばならぬ。最初は、一八二二年、出し物はシェイクスピヤの「オセロ」であつた。見物は、「大笑ひをした」と記録にある。そればかりではない。「けだもの」といふ半畳がはひる。生卵をぶつける。焼林檎を投げる。「シャケスパアル引つ込め」といふ始末であつた。
それが、一八二七年に、ケンブルがその一座を率ゐて「ハムレット」を出した時、殊に、一八二九年、別の一座が「オセロ」と「コリオラン」を上演するに及んで、シェイクスピヤの声価は定つた。見物は無条件に、この異国の天才を享け容れたのである。殊にすさまじい熱狂の声が、若い劇壇の中に起つた。
舞台の上で、ほんとに涙を流す俳優を、巴里の見物ははじめて見たのである。スミスソンといふ英国女優は、その時、オフェリヤに扮して、本物の狂女といふ印象を与へた。殊に、剣で刺されたり、毒を飲んだりする場合、眼もあてられぬ苦しみ方をするので、見物の女達は顔を蔽つた。
シェイクスピヤの捲き起した旋風のなかで、わがヴィクトオル・ユゴオは、「クロンウェル」の序文を綴つたのであつた。彼は、ペンを投げて叫んだ――「この芝居の
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