て、仏蘭西劇壇に大きな刺激を与へた。しかしながら、彼の作品の主調たる北欧的苦悶は、イプセンのそれ以上、ラテン的頭脳と相容れないものがあり、その影響は寧ろ独逸の劇作家中にこれを見ることができる。彼も亦その後期に於て象徴的傾向を帯びるに至つたが、近代劇の目指した一つの頂上は、疑ひもなく彼によつて占められたと云つていい。
最後に、露西亜劇は、トルストイの「闇の力」が自由劇場によつて演ぜられて以来、ゴオルキイの「どん底」、ゴオゴリの「検察官」等が紹介されたが、その他は多く翻訳として読まれたにすぎなかつた。大戦後、モスコオ芸術座の一行が巴里を訪れ、第一にチェエホフを上演して、この異色ある戯曲家の真価を完全に認めさせた。「桜の園」「伯父ワアニャ」「三人姉妹」等の諸作は、当時新機運に乗じた仏蘭西劇界に貴重な暗示を与へたことと思ふ。
モスコオ芸術座は一八九八年、スタニスラフスキイ及びダンチェンコの協力によつて、理想的な計画と基礎の上に建てられた世界一の芸術劇団であるが、その巴里公演(一九二一年)に際し、スタニスラフスキイは、公衆の前に立つて一場の挨拶を述べた。
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「われわれは仏蘭西の劇壇に何かを教へようとするものではありません。ただ、諸君にわれわれの仕事を見ていただきたいのです。このなかには、露西亜語のわからない方がおありのことと思ひますが、しかし、さういふ方々にも、われわれの演じる芝居は、七分通りわかつていただけるだらうと信じます」
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この宣言を聞き、そしてその舞台を観たものは、「近代劇はここまで来たのだ」といふ印象を受けたに相違ない。
更に、仏蘭西人は、スタニスラフスキイの祖母が仏蘭西人であり、また、彼はその青年期の一部を巴里で過ごし、国立演劇学校に通つたといふ報道を耳にした。
芸術的血統といふ問題に関連して、かういふ事実を思ひ出したのであるが、元来、ある作家が誰の影響を受けたといふやうな断定は、その作家にとつて迷惑なこともあらうし、また、意外な反証が挙る場合もあるであらう。
しかしながら、「影響を受ける」といふことは、多くの場合、偶々彼が自己のうちに有つてゐたものがそれによつて眼覚め、それによつて育てられるといふことで、如何なる外部的な力と雖も、自己のうちにこれを享け容れる同様のものがない場合は、全く赤の他人で終るので
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