る。純文学は世間を相手とせず、大衆文学は読者本位に作られるものだといふぐらゐの区別は知つてゐる。が、ただ、世間といふものは、俗衆ばかりでできてゐないことをも知つてゐるのである。つまり、優れた文学が俗衆に容れられないからといつて、それで世間全体を軽蔑し、敵視することは当らないので、その傾向が遂に、「一般社会に話しかける言葉」を文学者から奪つたといふ観察を私は下してゐる。
これは、文学者の方にばかり罪があるのではない。「世間」にも罪があるのだが、世間は今文学などを必要と感じてゐない時代であるから、如何とも致し方がない。文学者の方で、それに気がついて、世間の注意をこつちへ向ける工夫をしなければならぬ。勿論、日本といふ国を幾分でも住みいい国にするためである。それには第一、「共通の言葉」を探すことが急務だ。文学者の興味とする興味が、甚だしく職業的、孤立的である上に、その云はうとすることが、その「云ひ方」が、どうしても隠語的、暗号的になる。普通の教養で解釈し会得し得る表現によつて、文学は成り立ち得ないであらうか?
文学者同志でなければ通用しないやうな言葉身振りが、文学そのものをいかに狭くし、時
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