有つてゐるのか、――と気が付いたときから、急に外国語に対する興味が起つて来る。しかも、それは文学といふものに対して、はじめて眼が展けた時でもあるのである。かういふことは、本来ならば、国語教育を通じて行はるべきことである。ところが、これまで日本の国語教育はどうも言葉としてのセンスを国民に与へるやうに仕組まれてゐなかつた。即ち現代の日本人の多くは国語を通じて文学的なセンスを掴み得ないで、むしろ外国語を通じて掴んだといふことが謂へると思ふ。要するに、従来は日本人に対して日本語教育が充分に行はれなかつた。その欠陥を非常に皮肉なことであるが、外国語教育によつて大部分補つてゐたとも謂へるのである。このことは、殊に外国の優れた文学的作品に接するやうになると、一層はつきりして来る。曾つて、或る時期には、外国語をやらなければ新しい現代の文学の真髄に触れられない――といふやうな、日本人として甚だ悲しむべき実情にあつた。将来、国語教育が一層進歩して、これが日本語の正しい力強い訓練といふところにまでゆき得たとしても、なほ且つ外国語が今日までに果してきたさういふ一つの役割は、外国語教育を担当する人々が充分に自覚しなければならないことであると思ふが、いづれにしてもこの点に相当考へるべき問題があるやうに思はれる。この意味から云つて、今日、外国語教育の問題がいろ/\政治的に考慮せられるに当つても、この点を忘れてはならないと思ふ。即ち、外国語を通して触れる文学的なものは、ただたんに人々を外国に親しませるだけでなく、やはり文学の本質に触れさせるのであつて、決してそのために外国を怖れる必要はないといふことである。
          ○
 もう一つ外国語の問題がある。それは日本語の海外進出に伴ふ日本語教育の問題である。日本語をどういふふうな仕方で、外国人、特に大陸の人たちに教へるかといふことは、既にかなり以前から研究されてゐる。現在、一応その初歩の部分については方式も公けに決められてゐるやうだが、私の考へでは、日本語を外国人に教へるために、尠くとも日本人が外国語を学んだ経験がも少し生かさるべきである。しかし、事実は殆ど全くされてゐない。現在では、どちらかと云ふと、日本国内における国語教育を土台にして、それに外国人だからといふ幾分の手心を加へる程度のものが、日本語を外国人に教へる方法の基礎になつてゐる。であるから文部省辺りでもさういふ一つの基本的な研究をしてはゐるけれども、これに外国語教育の経験者がもつと参加してはどうかと思ふ。これは是非考慮してもらひたいと思ふ。といふのは外国語の教師、即ち外国語を教へてゐる日本人は、最も深く且つ長く外国語を学んだ人たちである。この人たちの経験が日本語を外国人に教へるメトードを創り上げるための最も有力な参考になる筈である。
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 最後に、これはちよつと外国語教育の問題からは離れるが、日本では中等学校の殆んど全部が英語を教へてゐる結果、外国語といへばすぐ英語のことしか考へないといふ傾向がある。したがつて、西洋風とか、西洋式とかいへば、それはイギリス式乃至アメリカ風と考へ勝ちである。このことが日本人の外国、特に欧米の認識を非常に誤らせてゐる。西洋と英米とを混同してゐること、これが――わたくしとしてはもう少し詳しく云ひたいことであるが――案外いろ/\のところに影響してゐるのであつて、日本人の正しい西洋認識にたいして著しい障碍をなしてゐるのである。また吾々の日常用語のなかで使はれてゐる英語は日本人の生活のなかにかなりいろ/\の影響を及してゐる。例へば今日、「教養」といふ日本語ができてゐるにも拘らず、カルチユアといふ言葉がしば/\使はれる。しかしカルチユアといへば、これはイギリス人的な教養である。カルチユアといふ言葉を使つて、日本人にカルチユアが有るとか無いとか云ふが、これではいかにしても日本的な教養即ち「たしなみ」を連想させない。それはイギリス的な教養の形式的輸入なのである。ところがそれは西洋的な教養でさへもないのである。それを日本人がカルチユアといつて、何か普遍的な意味を与へようとしても無理なのである。かういつた点をひとつ改めて考へなほさなければいけないと思ふ。
 一般に、専門教育を受けた人々は、これは英語に限つたことではないのだが、それぞれ専門にやつた語学を通じて、いま教養の不統一といふ現象を起してゐる。フランス語でやつた人はいくぶんフランス的な教養を身に付け、ドイツ語でやつた人にはある程度ドイツ風の教養がしみ込んでゐる。そしてお互ひにさういふことに気がつかないで、何かお互ひのあひだに本質的な違ひがあるかのやうに感じ、まつたく不思議な考へ方の対立をみせたりしてゐる。これは日本の今日の文化にとつて重大な問題である、或る国の言葉を少し深く勉強し、その国の文化に接触すると、かなり批判的にその国を観てゐても、とかくその国にたいして親しみをもつ。或る意味においてはその国にたいして愛情を感じる。そこで、自分の国についでその国が好きになるのは自然の人情である。ところが、日本人の場合は、どうかすると病膏盲に入つて、自分の好きな国の敵国は、自分の敵国のやうな気がしてみたりする。例へば、フランスが好きな人は、フランス人が嫌ひな民族をフランス人と一緒になつて嫌ふ。であるから、その民族が日本と非常に近い関係にあるやうな場合には、日本人として一種の矛盾を感じるやうなこともあり得るわけである。かういふことは、仮りに人情としては已むを得ないとしても、大いに反省を要することである。もとより外国語を専攻するためにはその国を知らなければならぬ。しかも、或る国を真に理解するといふことは、その国にたいする深い愛情なしにはあり得ない、といふこともまた事実である。かういふ点で従来やゝ溺れるといふやうな傾向が無いでもなかつたといふことは、これは個人としては大したことではないかも知れないが、日本の国民として考へると、その影響は甚だ大である。これは将来大いに考へなければならぬと思ふ。



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「改造 第二十四巻第二号」
   1942(昭和17)年2月1日
初出:「改造 第二十四巻第二号」
   1942(昭和17)年2月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
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