れとして、今度は専門学校以上に進むもののためにはどうするか、――これは前述の中等学校の教育法をそのまゝ適用していゝかどうかは疑問である。で、例へば上級学校にゆくための中等学校と然らざるものとを区別する――これは学制全体の改革に属する問題だが――のも一つのゆき方だと思ふ。さらに上級学校で外国語を習得する場合、従来と根本的にやり方を違へなければならない点がある。即ち、これまでは話すことと読むことと書くこととが、全然目的を異にするかの如くバラバラに教へられてゐた。例へば、会話のための英語だとか、或ひはたゞ本を読むための英語だとか、要するに非常に偏した外国語の身につけ方を、ほとんど総べてのものがやつてゐたといふことである。
 殊に大学なんかでは、専門の書物が読めればいゝといふふうに一般に考へられてゐた。また、書くことにしても、専門的な論文が書ければいゝ――実は専門的な論文は一般に非常にやさしいものだとされてゐるが――とされてゐた。したがつて、さういふふうな外国語の身に付け方をした人には、話すといふことはまつたく専門外のことであるのみならず、会話などはできなくても別に何の不便も感じない。むしろ、会話は外国語習得の最も俗な分野であると考へられさへした。実際また、会話を専門に学ぶ人々、例へば外交官とか通訳とか、或ひは外国商館に勤めやうとする人とかは、たゞ会話ができるやうになるために、実につまらぬ苦心を払ひ、肝腎なことがお留守になるといふ有様である。かういふふうな考へ方でいままで外国語の教育が行はれてきた。ところが、実際問題としては、さういふ外国語の習得の仕方が、やはりそれぞれの目的を半分づつしか達してゐないのである。例へば、大学の先生で、専門的な本はかなり読みこなせる人が、その専門的な学問について、さらに欧米の学者と議論をするやうな場合に、口が自由に利けなくなつてほとんど用が足りないことがあり、研究にも事を欠くとすれば甚だ考へものである。ところで、かうした結果になつたことは、外国語を通じて専門的な知識を身に付けるには、本さへ読めればいゝといふ、いはゞ一種の自己弁護が成り立つことに依るのだが、このことがそも/\外国語に対する間違つた考へ方に原因してゐるのである。即ち、外国語といふものは、「外国人のやうに」喋つたり書いたりしなければいけない、かういふ考へ方が過去において日本人の頭にか
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