から上の彼女は、こつちを向いてゐるらしかつた。抜き手が時々乱れた。頭が度々水の中にかくれました。
 それが、今度は、激しく現はれたり消えたりしました。両手だけが同時に水の上に出ました。波が細かにゆれました。
「助けて…………」といふ声が聞えるのです。私は笑つてゐました。
 また「助けて……」
 私は笑はうとしました。が、今度は、無意識に上着を脱ぎ棄てました。
 見ると、彼女の顔は、もうそこに見えるのです。空を仰いで、狂ほしく叫んでゐる。ほどけた髪の毛が、もれ上る波の頂に逆立つてゐます。
 私は夢中で水の中に飛び込んだ。此の瞬間、自分の勇壮な風姿を想像して、一寸口をゆがめました。
 水が膝まで来るところで、私は彼女の方に手を伸ばしました。彼女は、真蒼な頬に感動の色を泛べながら私の手に取り縋りました。
 やがて、彼女のぐつたりしたからだが砂の上に運ばれました。
「お芝居でせう」かう云つて、私は苦笑しました。

 その翌日、夕食の時刻に、私は彼女の夫に紹介されました。彼は幸福な男のあらゆる表情を漲らせながら、私の手を握りました。

 彼女は、その日の朝、私が散歩に出ようとするのを呼び止めて、かう云ふのでした。
「昨日のこと、うちには黙つてゝ頂戴。叱られるから……。うちがあなたにお礼を云はなくつても悪く思はないで下さいね。その代り、あたしは一生この御恩は忘れませんわ」
 私は黙つて、彼女の眼を見ました。

 誘はれるまゝに、私は二人のお伴をして海岸に出ました。彼女は、昨日の事件を想ひ出させる場所に来ると、夫の蔭から私の方に笑ひかけました。
「此の方は随分御親切なのよ。昨日あたしが晩御飯に遅れたら、道を迷つたんぢやないかと思つて、わざわざ迎ひに来て下すつたの」
「さうか」夫はそれほど興味が無さゝうに答へました。
 夫は、なぜだか、彼女が私について話すのを厭ふやうに見えました。実際、彼女は、私のことを話し過ぎるのでした。彼女は、それに気がついてか、「処で店の方はどう」などゝ問ひかけるのでした。そして、私には、時々例の微笑を送ることを忘れないのです。
 私は、丁度一人で歩いてゞもゐるやうに、黙つて、自分だけの幻想を楽しみながら、静かに歩を運んでゐました。
 彼女のぎごちない笑ひ声のみが、時々私の頭を掻き乱す外、海浜の暮色は、常の如く、私の心を超実在の世界へ導くのでした。
 あの水の底に、もつと美しい、そしてもつと自由な女を見てゐるのです。その女は、私に救ひを求める代りに、私をさし招いてゐるやうに思はれるのでした。
 何時の間にか、私は二人の姿を見失つてゐました。
 海が、白い歯をむき出して嗤つてゐました。

 翌朝、彼女は私の耳もとに口をよせて
「あたしたち、今晩パリへ帰りますの。あたしをこんな淋しい処へ一人で置いて置くわけに行かないつて云ふんですのよ。それやさうね」

 夫婦は、その日の夕方、馬車に乗りました。真夏の夕日が、都に帰るといふ若い二人の背に、皮肉な明るさを投げかけてゐました。



底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
   1926(大正15)年6月20日発行
初出:「女性 第八巻第一号」
   1925(大正14)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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