門的な部門では、立派な仕事をしてゐるが、一度この人間の生活――普通私生活といつてゐる部分、さうして、その私生活に寧ろその人間の全貌が実際現れるわけなのだが――を観るとその人の公の生活の中に十分発揮されてゐる人間的価値と幾分違つた形で、いはゆる非文化的な状態でそれが現れてゐるやうなことも度々あるのではないか。今後は人間の価値標準などももう少し実質的に見なければいけない。どうも今までは、仕事を生活の他の面から孤立さして秤にかけるといふところがあつたやうです。これなども、今後の文化を考へる場合、改めねばならぬことゝ思ひます。今日、職域奉公といふことが非常にやかましく云はれますが、作家は、作品を書くことが奉公でなければならん。さうするとすぐ作品そのものに何か奉公といふ精神がなければいけないといふやうに、ものゝ考へ方が狭くなつて行くやうな傾向が現在あることは、非常に危険だと思ふんです。人の仕事といふものは人の生活から出てゐるんだ。その人の人格全体、その人の生活全体が、現在の時代に役に立つて行けばそれでいゝので、逆にだんだん人間と社会の接触する面を狭めて行くやうなものゝ見方が、また起りかゝつてゐることは、大いに警戒しなければならんと思ふのです。一番極端な例は、八紘一宇とか、臣道実践とかいふことを、口の先で云つてゐれば、万事通用するなどゝ簡単に考へてしまふことです。鼻の頭にちよつと看板をぶら下げて置けばいゝといふことになつては大変だ。
隣組の力
隣組が出来たので、自分たちの生活内容が豊かになつたと喜んでゐるものもあり、或る処では、隣組が出来たから非常にうるさい、何か拘束を受けるとか、私生活の秘密を覗かれるとかいふので、いやがつてゐるやうです。が、運用の仕方によつては、非常にうまく行つてゐる例を知つてゐる。僕等なんかの側から云へば、隣近所と交際したからといつて、損をするところはないのだ。個人といふものゝ本来の観念から云へば、ちつとも他人から侵されるものはないので、隣組は、非常に理想的な形で僕等の頭に浮ぶんです。僕等の知つてゐる連中のなかでも、やああれはうるさい、迷惑だと云ふのが相当ゐるんだけれど、考へてみると、うるさいなどゝ云ふ連中は、これが旧体制と云つていゝかどうか知らないけれど、どうも時代の落伍者といふ気がする。ちよつと背中をどやしてやりたい人物に、そんなのがゐ
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング