といふから、わざわざこんなところへ出かけて来たんだ。それほど名案でもなかつた。時節|外《はづ》れの海岸は、まあ、こんなもんさ。
女 ほんとに、あなたつて、どうしてさう、方々をお歩きになつたの? あたしが行きたいと思ふところを、みんな知つてるつておつしやるから、いやになるわ。
男 お前は、また、どうして、さう、何処も彼処も知らないんだ?
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廊下で鈴を鳴らす音。食堂が開いた報《し》らせである。
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女 ちよつと、顔をなほして来ますわ。
男 部屋は十七号だよ。さ、鍵を持つてかなけれや……。
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女、階段を上つて行く。その間に、女中頭の菅沼るい(五十歳)白い毛糸のジャケツを、肥《ふと》つたからだに軽く羽織《はお》つて勿体らしく右手のホールから現はれる。男に会釈して、蓄音機の蓋を開け、レコードを択り、賑やかなタンゴをかける。そして、傍らの椅子に腰をおろし、眼をつぶつて聴き入る。
帳場の方から、「サン・ルームの電気!」といふマネーヂャアらしい声。
菅沼るいは、ハッとして、起ち上り、急いでスヰッチをひねる。こつちを見てゐる男と、視線が会ふ。
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るい 海がいゝ塩梅に静かでございます。
男 ホテルも静かだね。
るい はい、でも、一昨日までは、お部屋が足りないくらゐでございました。
男 ほう、そんなこともあるかね。
るい 新婚旅行のお客様が、大層お見えになります。それと、お子様がたの学校休みで……。こちらは、御家庭向きになつてをりますもんですから……。
男 君は永くゐるの、このホテルに……?
るい はい、まる四年になります。只今も、そのことを考へてをりましたんです。此処へ参りましたのが、私の、五十一の春……と申しますと、変でございますが、やはり、時節が今頃で、玄関前の桜が、ちらほらと咲きかけてをりました。
男 話が面白さうだね。僕は君の様子をみて、何か変つた生活をして来た人のやうに思つたのだが、すると、此処へ来るまでは、船にでも乗つてゐたの?
るい どうしてそんなことがおわかりになります。
男 別にわかるわけぢやないが、その洋装の着こなしは、板についたところがある。どうして
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