欲しい。裸の土人に、わざとらしい驚きの表情などさせるには及ばない。
「ビツグ・パレード」を観て、かういふ写真が、なぜもつと早く出なかつたか、それが不思議なくらゐだつた。最後の場面は亜米利加式で月並以下だが、所謂「戦線《ブロン》」の生活は巧に物語られてゐる。近来の見つけものである。
「プラアグの大学生」は何処までも「芸術と手術」(?)張りで、あのフアイトとかいふ役者の夢遊病者的演技も大方底が見えたやうである。いや、それよりも、あの魔術使ひ見たいな金貨を、さも深刻らしく使つたところなど、独逸流の悪趣味に相違ないが、これがまた活動写真式とでも云ふのであらうか。
一体、独逸の映画は、芝居がさうである如く、監督の意志が隅々まで行き渡り、あらゆる効果が精密に計算され、観客は、常に与へられたものだけで満足することを強いられるのである。一部の観客は、与へられるが故に満足するが、他の観客は、自ら求めんとするが故に不満を感ずるのである。
さうは云ふものゝ、そんなら独逸映画の向を張る映画が何処にあると問はれゝば自分は知らないと答へるより外はない。
私は固より映画を素人として鑑定してゐるのであつて、それも、多くは単なる娯楽のつもりで出かけるのであるから、観て損をしたと思ふことは滅多にない。芝居なら腹が立つたり、馬鹿々々しくつて顔をそむけたくなるやうなところでも、映画では案外平気で笑つて観てゐられる。「動く写真」といふ興味だけでも、まだ私は惹きつけられる。况や、外国の都会や、田園の風物は、またそれを背景として動く幾多の人物や生活の種々の相は、そのまゝ私の好奇心と、想像と、追憶とを撫でるに十分である。私は時とすると、物語そのものゝ発展を忘れ、断片的な場面々々を、それぞれ勝手に、自分の好みに通つた空想に結びつけて、愉快な一晩を過すことさへある。
さういふ私であるから、映画俳優に対しては、演技の優劣を離れて好悪の感情に支配されることが多い。特別に好きな役者はまだ「決まらない」が、嫌ひな役者は、いくらでもある。アドルフ・マンジユウとダグラス・フエヤバンクスは、どちらもたまらなくいやだ。
家の者同志が、ある映画の話をし合つてゐる。「それはなんだ」と聴くと、最近私も一緒に観たことのある写真だつたといふやうなことがある。茲に到つて、私は、映画を語る資格がないことを覚らなければなるまい。
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