会得し得る表現によつて、文学は成り立ち得ないであらうか?
 文学者同志でなければ通用しないやうな言葉身振りが、文学そのものをいかに狭くし、時によると、どんなに無力にしてゐるかを、私は幾多の例について語ることができる。
 文学の独自性といふものは、そんな狭苦しいところにあるのではない。詩や小説は、世間の何人がこれを論じてもをかしくない性質のものだ。政治家でも軍人でも実業家でも技師でも、好きな時好きな場所で、文学の話ぐらゐできなくては困るのである。現代の日本には、それをさせない「何か」がある。空隙か、障碍か? 恐らくその両方であらう。
 われ等ひと度、何人かの面前で、自分の職業を口にするや、一座の空気は忽ち凝固し、話題は一筋の糸の上を伝つて、危くトンチンカンに終るのが関の山である。そこで、われわれ文学者は今、いかなる時代に生き、いかなる役割を演ずべきかが問題となるのである。
 文学に対する国家的インテレストとか、文学者の社会的地位とか、体裁ばかりがどうなつても仕方がないといふ意見も、成立つと同時に、案外そんな掛声から、実質的なものが生れて来ないとも限らないといふ見方も、信用できなくはない。日本といふ国は、由来、さういふ奇現象に恵まれた国である。かういふ情勢の中で、われわれが一番もどかしく感じるのは、例の、文学に現はれた「文壇的奇習と方言」の存在である。文学が等しく「世間」を描いて、しかも、そのうちに「世間」を住はせない狭量または潔癖である。自分のうちにないものを、あるかの如く見せる幼稚な手品は、往々にして、非文学的俗臭を放つことがある。訛る標準語と同様世間の識者を茫然自失せしめる所以である。
 実際、かういふことをむき[#「むき」に傍点]になつて云ひ出しても、文学の面貌が一新するまでには、五十年はかかるだらう。



底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「月水金 創刊号」
   1937(昭和12)年4月5日発行
初出:「月水金 創刊号」
   1937(昭和12)年4月5日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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