す政治的統制の色彩が濃厚である割合に、国家として手を下すべき根本的な施設に触れてはゐないのである。
私がくれぐれも当局に注意したいことは、演劇映画の部門においては、若干の無資力にして性急な半素人的研究団体が存在した外、未だ嘗て、職業としての本格的な教育機関が何人の手によつても創られなかつたといふことである。
事実、名称だけは俳優学校と呼ばれたいくつかの組織がありはしたが、そこには、合理的なメソードもなく、近代アカデミイとしての人的統一もないのである。文明国日本の文化水準から云つて、これまで何人をも首肯させるに足る専門的技術の指導機関がひとつもなかつたといふことは、誠に不思議な現象であると同時に、それだけ、演劇映画といふものが、今日時代に遅れ、知識層の支持を失ひ、国民全般の精神的栄養として役立つところが少くなつてゐるわけなのである。
そこへ行くと、維新直後の役人たちは、世を挙げて欧化時代の風潮に乗じたものであるにせよ、今から考へると、なか/\洒落れたことをやつてゐる。つまり、「芸術と国民生活」の問題に、積極的な関心を示し、少くとも、近代国家の文化水準統一に若干の考慮を払つてゐるのである。例へば、その当時として、官立の美術学校及び音楽学校を創設したことなどはそれである。これら二つの機関が今日までどれほどのことをしたかは観る人によつて異るであらう。私のいひたいのは、たゞ、この西洋模倣のアカデミイが、実は、国際的な新日本芸術の揺籃であつたといふ事実を誰も否定しないであらうし、それは、時代へのよき刺戟であり、民衆への啓蒙であり、殊に生気あるアンデパンダンの育成を促した間接の役割に至つては、皮肉でなく、これを認めないわけに行かぬといふことである。
その結果は、西洋音楽も西洋美術も、今日では立派に日本化され、われわれの日常生活に浸透し、民衆の大部をその保守的な趣味から解放し、国際的な洋服風俗と共に、自然な美的表現の感覚を養はしめたのである。
如何なる国粋主義者も、軍楽隊を和楽化しようとは思はず、国歌の曲譜が三味線や尺八にのらないことを嘆じもしないし、銅像は東洋風の技法でなければならぬと誰も注文はしないのである。
ところで、さういふ音楽、美術のアカデミイに対して、明治初年の為政者は、それほどの賢明な見透しと決断を示したにも拘らず、同じく「西洋」から学ぶ必要があり、伝統
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