に扮する俳優の「現代人」たる資格を要求し、その生活、その教養、その趣味の一切を、演技の風格として鑑賞するのである。
 例へば、花川戸助六に扮する俳優が、助六そのものの如き生活、教養、趣味をもつてをればよかつた時代――さういふ時代は、とうに過ぎ去つてゐる筈である。少くとも、その昔、助六といふ人物に対する観客の興味は、この人物に扮する俳優のそれと大差はなかつた。しかるに、今日では、その間に格段の違ひが生じてゐるではないか。この相違は、やがて、歌舞伎劇の運命を物語るものである。
 ある者はかう云ふかもしれない。歌舞伎劇を演ずる俳優は、歌舞伎劇中の人物に近い生活、教養、趣味をもつてゐなければならぬ。それでなければ、時代的の空気は完全に出せないと。
 この議論は、恐らく、歌舞伎俳優並に歌舞伎劇愛好家の大部によつて信ぜられてゐるものであるかもわからない。私は、この考へが絶対的に誤つてゐるとは思はない。しかし、これは、結局、小乗的芸術観であり、作者が殺人を描くためには、殺人の罪を犯さなければならぬといふ議論に等しいものであるといひたい。
 余人は知らず、私が歌舞伎劇を観て、一番厭やになるのは、その脚
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