代通俗劇」が、歌舞伎劇に代つて巾をきかしてゐただらうと思ふ。そして、この「現代通俗劇」を向うに廻して、先駆的な、高蹈的な、純芸術的な立場から、ほんたうの「新劇運動」が起り得るのである。築地小劇場なども、さういふ場合にこそ、あの仕事に一層の意義が生じる筈である。

 今日まで、わが国の「新劇運動」は、あまりに先走りをしすぎてゐた。「運動」の発生に必然性を欠き、その方法に結果の予測が含まれてゐなかつた。それは、「運動のための運動」にすぎなかつた。被治者のない政治であり、本隊のない前衛であり、そして、空腹にヂアスタアゼである。
 歌舞伎劇は、将来、恐らく、現代大衆劇の勃興と倶に、現在の地位をこれに譲らなければなるまいが、さうなつても、歌舞伎劇の優れた伝統を受け継ぐ俳優の絶えない限り、かの能楽や、文楽の存続する如く、何等かの形式で、その特殊な生命を保ち続けるであらう。その時こそ、歌舞伎劇は、世界に誇るべき古典劇として、今日以上の芸術的地位が与へられるであらう。現在の歌舞伎劇は、その偶然なる世間的人気を繋ぐため、却つて本来の芸術的純粋さを失ひ、その上、一部劇壇の少数党から、嫉妬を交へた反動的蔑視
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