俳優(新派劇を含む)が「現代を知らぬ」著しい例として、現代人の諸種のタイプに対し、全く観察を怠つてゐるといふことがある。
 現代生活の諸相に盲目である結果は、総ての類型から脱することができず、あらゆる階級、あらゆる職業、あらゆる性格の常識的な表現以外、個々の人物に何等の創造を盛ることができないのである。
 しかも、そればかりではない。彼等は、近代的な表情と、姿態と、語調と、雰囲気とに鈍感であり、殊にその心理的陰翳に対して無神経そのものである。かういふ俳優が、近代的色彩の濃い作品を演じるのは無理であるし、「多少でも近代的教養をもつた人物」になれよう筈はないのである。興奮すれば粗野になるか、女々しくなり、ユウモアは下品になり、機智は擽りになり、ふわッとした味がなくなつた、ガサガサしたものになり、余韻が消えて、露骨さが目立ち、詩的情趣《リリシズム》が変じてキザな詠歎となり、理窟を云はせれば三百代言の如く、恋愛をさせれば……ああ、もうこれくらゐでよしておかう。

 私は、歌舞伎俳優がその伝統的演技を棄てることに賛成はしない。しかしながら、現代の観客は、如何なる作品の如何なる人物を通しても、これに扮する俳優の「現代人」たる資格を要求し、その生活、その教養、その趣味の一切を、演技の風格として鑑賞するのである。
 例へば、花川戸助六に扮する俳優が、助六そのものの如き生活、教養、趣味をもつてをればよかつた時代――さういふ時代は、とうに過ぎ去つてゐる筈である。少くとも、その昔、助六といふ人物に対する観客の興味は、この人物に扮する俳優のそれと大差はなかつた。しかるに、今日では、その間に格段の違ひが生じてゐるではないか。この相違は、やがて、歌舞伎劇の運命を物語るものである。
 ある者はかう云ふかもしれない。歌舞伎劇を演ずる俳優は、歌舞伎劇中の人物に近い生活、教養、趣味をもつてゐなければならぬ。それでなければ、時代的の空気は完全に出せないと。
 この議論は、恐らく、歌舞伎俳優並に歌舞伎劇愛好家の大部によつて信ぜられてゐるものであるかもわからない。私は、この考へが絶対的に誤つてゐるとは思はない。しかし、これは、結局、小乗的芸術観であり、作者が殺人を描くためには、殺人の罪を犯さなければならぬといふ議論に等しいものであるといひたい。
 余人は知らず、私が歌舞伎劇を観て、一番厭やになるのは、その脚本の時代遅れなことでもなく、演技そのものの不自然でもなく、ただ、諸種の人物に扮する俳優が、如何にも観客を甘く見てゐる、あの態度である。甘く見てゐるといふのは、彼等が、旧時代の教養や非個性的趣味から割出した演技の「トオン」を、さも大事らしく見せびらかすことである。舞踊劇は先づよいとして、時代物、殊に世話物などになると、この傾向は、最も著しく現はれる。今日、凡そ封建思想ほど滑稽で、不愉快なものはない。その思想は、せめて舞台上の俳優によつて、一度は十分に客観化されねばならぬのに、それがこのまま、俳優の演技を色づけてゐるのだから、馬鹿馬鹿しいのである。
 現在の歌舞伎劇は、観客として、知識階級を失つた。遠からず民衆の悉くを失ふだらう。(一九二九・四)



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「悲劇喜劇 第七号」
   1929(昭和4)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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