よ。
牧子 あたくし、眉墨や頬紅なんか、もう使ひませんよ。
貢 使はなくつてもいいから、しまつとけ。
牧子 何を思ひ出して、こんなもの買つてらしつたの。
貢 いろんなことを思ひ出してさ。それはさうと、お前、西原は一人で帰つて来たよ。金髪美人を連れて来るだらうなんて云つてたけれど……。
牧子 まだ、どうだかわかるもんですか。後から追つかけて来ることだつてありますわ。
貢 疑ひ深い奴だなあ。しかし、あいつ、おれんとこなんかへ遊びに来るかねえ、久し振りでゆつくり話さうつて、今日、手紙を出しとかうと思ふんだが……。当分、神田の鳳仙閣つていふホテルにゐるらしい。一人ぢや、家を持つわけにも行くまいしね。奴さん、お前がかうしてるのを見たら、きつとびつくりするぜ。
牧子 (そんな話に興味はないといふやうに)ぢや、御飯の支度をして来ますわ。
貢 まだ早いよ。もう少し話をしようぢやないか。今日は、なんだか、いろんなことが新しく始まるやうな日だよ。今日まで、世間から離れて、たつた二人つきりで送つて来た暗い生活の中へ、思ひがけなく、同時に、二人まで、華やかな――さうだ――二人の華やかな友達が訪れて来るんだ。来たと云つてもいい。あいつは、きつと来るよ。
牧子 兄さま。より江さんをどうお思ひになつて……?
貢 気持のいい人だね、何してるの?
牧子 外国人の商店に働いてるんですつて……。売子みたいなもんかしら……。でも、下品なところはないわね。
貢 さうか、職業婦人だね。なんでもいいさ。お嫁に行つたつて云ふのはどうしたの。お前、昨夜、さう云つたらう。間違ひだつたの。
牧子 一度行つたんだけれど、うまく行かなかつたらしいの。
貢 はあ。なに、かまふもんか、そんなこと……。友達として交際《つきあ》ふ分にや、一度目だつて、二度目だつてかまやしない。
牧子 友達としてなんて仰しやらなくつてもいいぢやないの。
貢 まあ、さう、つけつけ[#「つけつけ」に傍点]云ふなよ。おれは、しかし、駄目だ。そんな気は起さない方がいい。それよりも、おれは、何時も云ふ通り、お前のことを心配してゐるんだ。それも、今までの生活では、何時どうといふ望みはなかつた。しかし、かうなつて来ると、お前の周囲にも、明るい、和やかな空気が漂ひ出すんだ。それを、お前も、感じるだらう。感じなければうそだ。感じるやうにしなくちやいけないよ。さうなれば占めたものさ。お前は、まだ若い。いや、若いんだよ。あの人を見ろ、より江さんを……。お前と同い年だらう。あれが、つまり、周囲の空気を感じてゐる証拠だ。お前も、あの通りになれ。――笑ふ奴があるか。
牧子 男つて呑気なものですわね。いくつになつても空想があつて……そして、その空想に相応した興奮があつて……。
貢 何を云ふか。おれは、今日、自分でも少しはしやぎ[#「はしやぎ」に傍点]すぎるなと思つてゐる。だからつて、別に、さういふ気持を抑へる必要はないぢやないか。これはほんの譬へだがね、今、より江さんがおれの細君になり、西原がだよ、お前の旦那さんになつてくれてさ、さういふ二組の新しい生活が始まるとしたら、お互に、よろこんでもいいぢやないか。それは、あり得ないことかも知れない。しかし、一昨日よりは、あり得べきことだらう。さういふ今日に廻り会つたことだけでも幸福ぢやないか。希望は逃げて行くもんだ。しかし、希望が一つ時でも、こつちを向いて笑つてくれれば、こつちも、大いに笑つてやればいいぢやないか。
牧子 そんな理窟は成り立つかどうか知りませんけれど、兄さまの、さういふ元気なお顔を見るだけでも、晴れ晴れしますわ。より江さんは、いろいろ事情はあるでせうけれど、きつと、そのうちに兄さまを好きになると思ひますわ。兄さまさへ、今のやうなお気持でいらしつたら、話は、とんとん拍子できまると思ひますわ。さうなつたら、あたくしも安心ですわ。ここのお勝手をあの方にお預けして、あたくしは、どつかへ働きに出ますわ。できれば、あの方の今の仕事を譲つて頂くやうにしますわ。
貢 そんなことをしなくつてもいいよ。お前はお前で、ちやんと、結婚をして、此の近所に家を持つさ……。さうするまでは、そんな、働きになんぞ出なくつたつて、一緒に家の仕事をすればいいぢやないか。あの人は、花をいぢるのが好きだつていふから、そつちの方を手伝つて貰つてもいいし……。
牧子 とにかく、もう少し、おつきあひしてみないとわかりませんわね。
貢 それもさうだ。急ぐことはないさ、下手に切り出して、もうここへ来ないなんて云はれちや、なんにもならないからね。それくらゐなら、始めからなんにも云はずにゐて、いつまでも、友達として出入をして貰つた方がいいよ。ああいふ友達は、是非、必要だ、われわれの生活には…
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