越えてゐたと云へるのである。即ち、演劇に関する他の部門は兎も角、演技の実際的指導を如何にしたかといふ点で、少くとも、今日われわれに大きな疑ひを抱かしめる。恐らく無能な職業的俳優が自ら指導者の地位に立つたよりも、原則として無難であるべき筈だが、事実は、俳優の演技的センスを消滅させ、脚本から直接舞台の生命を嗅ぎ出す能力を衰退させたことは、何と云つても、「無理な指導的演出」の罪であつた。
今でもなほ、若い演出家の仕事を見てゐると、俳優に対して、「その台詞で起ち上れ」とか、「甲がこの台詞を云ひ終つたら、そつちを向いて拳を挙げろ」とか云つてゐるのに対し、俳優は易々諾々、これに従つてゐる。勿論、「なるほど」と思つてやるならそれでいいが、さうでなければ可笑しなものである。そのくせ、俳優が一つの白の言ひ方を明瞭に間違へてゐても、彼は、なんとも注意しないのである。俳優に委せることは、いくらでも外にある。
それなら、批評的演出の具体的例を挙げてみよう。断つておくが、批評も批評のしやうでは、「指導」的になることがあり、それも批評の限界に止つてゐる間は弊害がないのである。
今ここに、甲が乙に対し、
「出て行け」
といふ白を云ふ場面がある。甲の俳優は、戸口を指して、叱るやうに「出て行け」と怒鳴つた。
戸口を指すといふト書は台本にないが、俳優がさういふヂェスチュアを工夫したのだ。演出者の眼に、ふと、それが不自然に映つた。そこで、「君はどうして、戸口を指すか」と問ふてみる。答は「その方が、この人物の心理を的確に表現すると思ふ。第一、出て行く場所を明らかに指定する方が、見物にも、ある期待をもたせ、命令が一種の脅威的な力をもつことになりはせぬかと思ふ。」
が、演出者は、まだ不服だ。それなら寧ろ、頤だけで戸口を指し、低く、決意の籠つた声で云ひ放つた方が、一層効果的だと思ふ。それを俳優に説明する。手を挙げて指すといふことは、古典的な舞台なら兎も角、現実生活に於ては、なんとなく、大袈裟な、それだけ隙のある動作だ。効果が寧ろ反対に、滑稽味を帯びて来る。「さういふつもりでやつてみ給へ」と云ふ。俳優は、すぐにそれをやつてみる。「それぢや、また、まるで駄々つ子だ」。内部的にまだ欠陥があることを指摘し、そこの工夫を希望しておく。相手が素人なら、これくらゐ突つ込んで、「批評」しないと形がつくまい。これで、
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