てゐるやうだが、結局、一人の人間の頭で、好い芝居を作り上げなければならぬといふ己惚れを棄てない限り、どんな理論も学説も、机上に於てしか通用しないのだ。
 私は、自分の乏しい経験と仏蘭西に於ける若干の実例に照して、次のやうな結論を導き出した。
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一、演出法といふものは、上演すべき脚本の種類性質に応じて、常に、一定ではあり得ない。即ち、演出者の意図を舞台の表面に現はし、そのアイディアに効果の重点をおく方法と、演出者は、ただ舞台の蔭にあつて、作者の意図と俳優の演技に舞台の全生命を托し、この完全な調和融合を計ることをもつて満足する方法と、この両極端の何れにも同一の重要性をおく必要がある。
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 仮に、前者の方法を取る場合でも、演出者の気紛れから、脚本の本質的生命を無視し、俳優本然の欲求を斥けることは、演劇芸術への冒涜であり、これは、強盗や悪資本家の所業と選ぶところはないのだ。芸術の名に於て、他人の苦痛や迷惑を顧慮しないでよいといふ論法は、断じて許し難いのだ。若し仮に、さういふことをしたければ、他人の脚本など使はずに、自分で台本を作るなり、自分の配下に書かせるなりすればよい。個性ある俳優を使はずに、人形なり、またその名に甘んずる「奴隷」を駆り立てるがよい。かうして生れた一種の専制的演出は、必ずしも、芸術的に無意義なものでなく、その価値は、それ相当に批判されていいのだ。
 脚本によつては、演出家の「協力」なくして独自の舞台性を保ち得ないものがある。この時こそ、演出者は、自己の独創的才能によつて、脚本の生命を舞台上に躍動せしむべき機会であるが、そのために、作者の領域にまで踏み込むことは、作者の同意を得ること、必ずしも予期し得られないことはない。
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二、次に、演出法といふものは、相手の俳優次第で、これまた、伸縮自在なるべきものである。当然すぎるほど当然なことだが、俳優と演出者との脚本解釈上の一致を見た上で、その俳優の才能、経験、その他特殊な素質に応ずる演出法を採用すべきで、この場合、協議的演出ともなり、指導的演出ともなり、また批評的演出ともなるのである。
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 協議的演出とは、俳優が相当の地位にあり、演出者はその技能貫禄に対して、
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