」に成り得るといふ「方法」は、ただ一つである。即ち、俳優の「演技」である。更にこれを分割すれば、「言葉」或は「身振り」である。その一方だけでも「演劇的」なものが出来上るのである。(ラヂオ・ドラマ、パントマイム)ただ、その「言葉」は、「語られる言葉」であつて、「書かれた言葉」であつてはならず、その「身振り」は、「科《しぐさ》」の範囲に限られてゐる。即ち「意志」と「感情」を伴ふものでなければならぬ。(気狂ひじみた動作の連続は「演劇的」でない)
さて、これを約言すれば、俳優の演技によつて、ある「生命の発展」を示すことが「演劇」の必要条件として考へられる。つまり、俳優がある人物(或は擬人化されたもの)に扮して、その人物の「生活」を生活してみせるといふことである。(人形劇は、俳優の肉体と精神とが、人形とこれを操るものとに分裂しただけである)そして、その「生活」は、予め仕組まれた物語の形式による場合と、俳優が即興的に舞台上で仕組んで行く場合とあるが、何れも、言葉(対話)と動作(身振り)による「演技」と、その扮する人物の外貌を模した扮装、並に、その人物の生活環境を表示する装置とによつて、心理的に、又は感覚的に、物語の進展を印象づける。扮装及び装置は、絶対に必要とは云ひ難い。何者かに扮してゐるといふこと、即ち、「俳優」であるといふことがわかれば、それで十分な場合もある。装置も同様である。場所の暗示さへできてゐればよく、時によると舞台上の人物をして「此処は何処である」といふ説明をさせてそれですます方法さへある。
それならば、演劇とは「物真似」にすぎぬかといふ疑問が起りさうであるが、「物真似」は勿論、演劇の原始形態ではあつても、決して、芸術ではない。前に述べたとほり、「生活の発展」から、ある種の「美」、しかも、創造的なものが生れなければ、如何なる意味に於ても芸術とは云ひ難い。そこで、演劇が、「物語」、すなはち、文学の「方法」と提携する。しかも、純然たる「叙事」と「抒情」の範囲から脱した、一種独特な「物語形式」を要求することになる。「戯曲」の「制約」は、即ちここから生れて来なければならぬ。
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一、時間の経過に従つて物語が進められる。時間を経過させる速度の調節はできるが、後に起つたことをさきに現はすことはできぬ。
一、時間の経過を止める方法は、演劇を中断するより外はない。(合唱隊により、又は幕を下す等)
一、舞台は、同時に[#「同時に」に傍点]ただ一つの場所を示すにすぎない。
一、舞台上の言葉は、その人物の間で取交されるのを原則とするが、その実、多数の見物に呼びかけてゐるのである。
一、見物は劇場にゐることを忘れることもできるが、劇場にゐることを想ひ出すことで悦びを感じるのである。即ち、俳優[#「俳優」に白丸傍点]と、その扮する人物[#「人物」に白丸傍点]と、その人物を創造した作者[#「作者」に白丸傍点]、この三つの生命[#「生命」に白丸傍点]を同時に感じる時、最も完全な陶酔境に浸り得る。
一、観劇の時間は、疲労の度を考慮し、純然たるスペクタクルを交へるに非ざれば、約三時間を限度とする。
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私は、以上の諸点を以て、最も重要な「演劇的条件」と見做すものである。これらの条件を無視することによつて、演劇の領域を拡大しようとする試みもなされたが、何れもそれは試みに終つて、やうやく、変態的一例としての興味を惹くに止まるのである。そこでこれら「演劇的条件」がそのままテクストたる「戯曲」の制約となるのであるが、なほ、説明を加へれば、
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一、登場人物は一人以上、舞台の広さに応じて幾人でもかまはぬが、時[#「時」に白丸傍点]と場所[#「場所」に白丸傍点]の関係に於てのみ人物の生活が存在する。即ち、時と場所の関係を離れた人物を登場させることはできぬ。
一、舞台刻々のイメエジは、決して観念として沈潜又は停止を許さない。従つて、音声的といふよりも、寧ろ心理的な律動によつて、舞台の物語が誘導的に進展することを必要とする。
一、作者がある人物をして語らしめようとすることは、一つの観念であるが、それが語られる時は、常にその人物の必然的な要求[#「必然的な要求」に白丸傍点]から発せられた言葉[#「言葉」に白丸傍点]の如くでなければならぬ。
一、舞台上では、人物に如何なる行為[#「行為」に白丸傍点]をさせることもできる。ただ、その行為の「真らしさ」は、行為が激しければ激しいほど失はれ易い。
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これでまだ云ひ足りぬ部分もあるやうだが、大体右の「制約」は、作者に更に、次の如き注意を要求する。
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一、人物の出し入れには必ず「理由」を与へねばならぬ。作者の「必要」は如何なる場合にも最も拙劣な理由である。従つて、何等理由を与へないことが却つてこれに優ることがある。
一、テクストたる言葉は、誘導的なる条件の下に、対話[#「対話」に白丸傍点](独白、傍白を含む)、雄弁[#「雄弁」に白丸傍点](西洋の 〔e'loquence〕 に相当するもの)、及び詩[#「詩」に白丸傍点]の三要素に限られ、「散文的」なるものの混入を許さぬ。
一、物語の主観、結構、及び、人物の対話、科などに、所謂「真らしさ」を求めることは、結局、「真実の美しさ」を求めることで、決して「現実そのもの」を再現することではない。「真らしく」するために「嘘の醜さ」に陥ることがある。大声をあげて泣くとか、人を擲るとか、舞台の上を走るとかいふことは、「真らしく」見せれば見せるほど滑稽で、「嘘の醜さ」を暴露する。畢竟、「真らしさ」とは、「本当のやうに見せかける」ことではなく、舞台の「制約」を透して、現実の精神を生かし出すことである。
一、眼に見、耳に聴くところの刻々の幻象《イメエジ》は、韻律的に、舞台の物語を運んで行くのであるが、この韻律は、戯曲の制約が作者の想像と感覚を弾ませつつ生じるので、作品に一定の色調《トオン》と、生命の躍動を感ぜしめるものである。
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ここで、私は仏蘭西の哲学者アランの、詩と雄弁並に散文についての数句を引用させてもらひたい。
「律動《リズム》が自らの不変のいはば機械的な歩みをあくまで肯定しつつ、しかもその事物の在り方に従つて表現し得た時には、あだかも不変の自然がわれわれの自由意志を肯定せる時の如く、その一致から宗教的な偉大さをもつ効果が生じて来る。これこそ詩の本格的秘訣である。」
「脚韻(詩の)は意味に屈従すべきでなく、また意味は脚韻に屈従すべきでないことを知るのである。しかも美しい脚韻と美しい意味との応和が喜びを与へる。反対に苦労のあとが感じられるか、又は恩恵を請ひ求めるやうなものは、すべて醜悪である。」
「雄弁の特色は時間の法則の下に思考するといふことである。ここに於ては、一つの発展は他の発展を消して行くことを忘れてはならない。演説は聴官によつて幻覚されるものだからである。」
「演説的語句の構造は方向を含められてをり、誘ひゆくものであるに対し、散文の構造は注意力を分散させ、拡大させながら、しかも常にそれをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、散文と雄弁との間には、推論と判断との間に於けると同様の相違が存することが解るのである。」
これらの句は、演劇の本質に関する思考の上に、非常に大きな示唆となるものである。
殊に、同じくアランの「演劇について」といふ論文(劇作所載)は、決して「専門的」ではないが、私の演劇論に一つの新しい道を拓いてくれたものである。序に、その中から、重要な句を拾つてみる。
「演劇は決して日常生活から拾ひ集めた感動的な、又は愉快な会話から作られるものでないことを、明かにしなければならない。」
「これは、舞踊、音楽、建築、デッサンがさうであるやうに、自己本来の方法及び条件に従つて発展するものである。」
「独白が行はれ、聴き役が現はれるといつたやうな、場所についての、つまり規則通りに行はれる邂逅に関するさまざまの約束は、決して勝手気儘なものではなく、正に反対に演劇の形式そのものに属するものであることは明白である。演劇精神がそれを課するのである。」
「すべて言葉を使用する芸術に於て、言葉の質料、即ち騒音、擦音、※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]軋音などの支配力が大きくなれば、それだけ表親は貧弱になる。演劇も亦一つの言語なのである。」
「私は対話について語らねばならない。これはドラマの主要なる、しかも亦最も明瞭な方法である。」
「劇作家は、対話、独白、及び呼び返し得ない時の歩み以外の方法を有たない。」
「時の歩みが事物に価値あらしめるのである。フィガロの結婚の最後のフィガロの長台詞にしても同様である。フィガロをしてハムレットと共に不朽ならしめるこの台詞は、演劇的躍動の完璧の範例として、あらゆる雄弁に優るものであるが、しかも雄弁とは別の方法によつてゐる。ドラマを支へるために、人物の性格や思想に頼ることが如何に誤つてゐるかが理解されたであらう。それは画家が画題によつて人を喜ばさんとするのと同じ謬ちである。実際はその反対にその画題はその描線によつて喜ばすのでなければならない。同様に演劇に於ては、思想は状況と動きによつて人の心を持つのでなければならない。何ごとかを証明せんとするドラマほど世に冷いものはないのは、この故である。」
「詩がドラマのうちにおいて容易に発展し得ることは、シェイクスピヤの洞察した通りである。その舞台装置の見すぼらしさや場面の移り変りが大目に見られるのは、この鋭い詩の力によつてであり、第一、時の法則さへ尊重されてゐれば、そんなものは眼につかない筈である。しかしまた同一理由によつて、場面はいつも同一の特長のないものであつてもよく、また舞台に全く動作が欠けてゐてもかまはないことにもなるわけである。対話によるドラマの展開と、常に感じられる時の歩みが、全世界の附随し来るべきことを十分に保証するのだ。」
「身振りはどうかといふに、これは自ら言葉に従ふものである。」
「身振りや態度に変化を与へようとする幼稚な苦心ほど、まことに演劇の言葉から遠いものはない。」
「演劇の所作は時の法則に従ひ、その真実が表現されるのは継起のうちにおいてであつて、個々の部分においてではない。」
「拙劣な演劇に於いては、窮極に於ける道徳の勝利によつて、文体の欠如が救はれてゐるといふことさへできよう。」
大分長くなつたから、これくらゐで引用は止めるが、要するに、当代の二大頭脳、ヴァレリイとアランの断言を信じるとしたならば、われわれは演劇の本質を、「舞台の制約によつて高められた生命ある幻象《イメエジ》の発展的な律動」と解して差支なからう。
さう考へて来ると、これまで舞台で観、活字として読んだいろいろな戯曲が顔に浮んで来る。それらの魅力――文学的にしろ、舞台的にしろ――の悉く、「劇的」と名づくべき魅力の一切は、時間と空間の「約束」に支配されるところから生れてゐることがわかる。作者の努力は、ある障壁にぶつかつて、想像の範囲を拡大し、そこに捉へられた幻象《イメエジ》は異常な閃きと高さを示す。また、その感覚は、ある限られた境界の中で、鋭く顫へ、ぴんと張り切つてゐることを感じさせる。殊に、突発的に盛り上る「生彩に富んだ場面」は、殆んど常に、作者の思考から自然に生れたものではなく、実に、作者自身が、舞台にある「変化」を与へる必要に迫られ、即ち、「制約」の命ずるところに従つて、なんとかその瞬間の「調子」を決定しなければならぬ羽目に陥つた場合に、堆積の奥深く眠つてゐた「経験」の一つが、救ひの如く現はれた、その結果なのである。この幻象を捉へ得るか得ないか、しかも、かくの如き「経験」が蓄へられてゐるかどうかは、一に、その作者の稟質と才能によるのであらう。が、「束縛なき文体」に於ては、決して浮び出ない幻象が、「制約」
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