、僕と、この点で意見を同じくする人であると思ふが、その所説中、「言葉派」と「動作派」の対立を、「文学性」と「演劇性」の対立と解し、僕が、従来「言葉」の中にさへ含まれる「演劇性」を強調した事実に触れず、「文学性と演劇性」の調和といふよりも、寧ろ、「文学性と演劇性」の本質的一致を説く僕の「純粋演劇論」に一瞥の労をも与へてくれなかつたことは、当然、僕の主張を中途半端な、又は片手落ちなものと誤認させる懼れがあると思ふ。
「動作派――即ち欧羅巴の偉大なる演劇思想家の大多数」といひ、彼等が所請「文学性を排除し、所謂演劇性を昂揚」したと見るのはよろしいし、また、それらの主張が、「文学性のあまりなる蔑視によつて、完全に行詰りを示した」と断ずる正当な批判は、わが新劇界に、もつと深く行渡らねばならぬと思ふが、西洋演劇に於ける「言葉の効果」が、個々の演劇的流派を超越して、一個の伝統的基礎観念、又は、常識的根本技術に関してゐることを前提としなければならぬと思ふ。
それゆゑにこそ、「言葉の氾濫」がある時代の欧羅巴演劇を窒息せしめ、一つの反動的傾向が生れたといへるのであつて、それは、「言葉」自身の罪でなく、「言
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