得るものでなく、日本現代の演劇と、その革新運動の諸相を通じて、最も、根本的にして、しかも全然等閑に附せられてゐる側面を、単に戯曲作家の側からのみでなく、俳優、並びに演出家の立場からも、強調し、その研究と訓練に向つて、新劇の努力を集中せしめるための一つの「提議」なのである。
演劇の本質を論ずるに当り、「言葉」が主か「動作」が主かといふ問題は、岩田氏の云ふ如く、「果てしなき論議」だとは、僕は思はぬ。「動作」が主なる演劇もあり、「言葉」が主なる演劇もあり得ると考へるのが普通であらう。また、「言葉」が心理的で、「動作」が感覚的だといふやうなことも、僕は考へてゐない。なほ、「言葉」のうちに動作を含み、「動作」のうちに言葉を含む場合が屡々あることも知つてゐる。それ故、僕は、演劇の本質を定義する文句の中に「聴官と視官に愬へるイメエジ」といふ言葉を常に用ひてゐる。
ただ、僕が、日本の現状に即した「言葉重視論」を唱へると、一方では、――いや、それは、小劇場主義者の論議であつて、大劇場を目指す演劇は、よろしく、「動作」を主とすべし――といふ説をなす人々がある。
僕は、この説を、一応、尤もだと考へる。但し、「動作」を主とするとは、抑もどういふことを云ふのか、その点で、僕は多大の懸念をもつてゐる。僕の「言葉重視論」は、最初にも述べた通り、「言葉を主とする演劇」を尊重せよといふのではない。「言葉」が主でも、「動作」が主でも、その何れの中にも含まれる「言語的表現」を、その正確さ、その錬磨の程度に於て、従来のレベルからずつと引上げなくてはならぬといふ意味である。それが従来の旧劇でも新派でもない、真の意味に於ける現代劇樹立の要諦であるといふ意味である。
「動作の訓練」も必要であるが、それは、先づ「言葉の訓練」が、基礎的課程を終つてからでよろしい。近代演劇に於ける「動作」の殆んどすべては、「言葉」の感覚から遊離しては、何等適切な効果を生み得ないのである。それが順序である。この順序を間違へてゐたのが、今日までの新劇であつて、現在、新劇の行詰りを来たした最大原因である。
従来の新劇は、その出発点に於て、華々しい意図を示したに拘らず、その意図を実現するための手段を欠いてゐた。俳優は概して、台詞を諳誦するのが関の山であり、演出家は舞台の「動き」、即ち、「動作的要素」にその技術的工夫を凝らし、脚本は屡
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