たことに帰すべきである。
 一個の文化的教養と、現代的感覚と、そして、優れたる人間的魅力とを備へた俳優の志望者の出現は、何よりも、「新劇」に必要であつた。技術の問題はそれから後である。ところが、「新劇」の畑には、さういふ人物を誘引するに足る好餌がないのである。甚だ穏かならぬ言ひ方であるが、事実は正にその通りで、若しわれわれが「この人」と思ふやうな人を希望通り舞台に立たせることができたら、わが「新劇」の面貌は、たちどころに一変するであらう。芝居のよしあしは、その上で問題にすべきである。ところが、今日まで「新劇」の舞台に立つた人々は「新劇俳優」たるべく、常に根本的な弱点をもち、これを指導するものも、またその弱点を補ふために最善の努力をしたとは思へぬのである。
 ここで「新劇」と移するのは、勿論、研究劇的存在を指すのではない。文明国として、日本も当然もつてゐるべき筈の「現代演劇」を指すのである。その「新劇」の俳優は、なによりも、「生活の奥行」をもつてゐない。ひとつには、年が若すぎるのである。次に申合せたやうに「下町的」である。下町的であることは、ある芝居には適しても、現代劇の一般には適せぬ。これは、意外だと思ふ人があるかもしれぬが、恐らく、舞台生活の裏には、下町文化的儀礼と趣味が浸潤してゐるのであらう。
 僕は常に知人の中の相当年配の人達に会ひ、又は新聞に出る某々名士の写真などを見ながら思ふことであるが、日本の舞台にも、かういふ「柄」の役者が続々現はれるやうになつたら、それだけでも芝居がぐつと面白くなり、人生の姿がその幅と、深さと、真実の味を以てわれわれに迫るであらうと。早く云へば、現代演劇の魅力は、先づ、俳優の「柄」からといふ結論がひき出せさうなのである。
 現代的な意味に於て何かしら溌剌としたところがない以上、俳優は、舞台の上から、「現代劇」の名に於て見物に呼びかけることはできないのである。考へがここまで来ると、現代に於ける演劇革新の運動も、前途尚ほ遼遠の感がある。
 舞台を志す青年子女が、宿命的に負はされた因襲の衣が、遂に、現代のわが劇壇を萎縮させてゐるのだとすれば、僕などの描く夢は、文字通り一片の夢想にすぎぬであらう。(一九三四・九)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   193
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