I解説や、定義が下されるやうになりましたが、それは何れも机上の空論であつて、それならば、さういふ演劇がどこにあると云はれゝば、一句も吐けない。演劇は依然、文芸や美術音楽などゝ並んではゐるものゝ、常に面はゆげにその姉妹らの余光を仰いでゐるといふ有様だつたのです。
 凡そ一つの芸術品が、芸術としての存在を主張し得るためには、創造者の霊感が、直接、そして純粋に、美の表現に到達してゐなければならない。そこには、平俗なる感情との妥協や、偶然が齎らす効果の期待などがあつてはならない。演劇は其の性質上、さういふ不純な、間接的な、動機に束縛され、左右され易い。或る程度まで、それが避けられない。そこから、演劇の芸術的存在が危ぶまれ、困難となるのではないか。かういふ立場から、演劇の芸術的純化を試みた最初の人が、誰も知るアンドレ・アントワアヌであります。
 アントワアヌの事業、即ち自由劇場以後の運動については、後に述べることゝし、こゝでは演劇を形づくる諸原素が、如何なる状態と関係に於て演劇の芸術的堕落を導いたか、その問題について、一と通り研究して見ようと思ひます。

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 演劇に於
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