劇的美」の表現形式を発見せしめ、文学的にも完全な近代的詩劇の誕生を告げさせるに至るでありませう。
 一方、演劇の独立を唱へるクレイグの理論は、文学としての戯曲を排し、俳優の人形化による様式的舞台表現に成功さへすれば、演劇の一部門として、決して生命の短かいものではあるまい。たゞ、一人の実行的天才が出るまでは、理想論として、単に、演劇研究者の一顧を値するに止まるでありませう。
 文学史的進化に伴ふ演劇の将来は、今のところ、写実主義の離脱より、新しい象徴的舞台の完成へ進むべきでありますが、此の間に、本質主義の研究的努力とあらゆる近代主義の勃興とが、その発展をそれほど著しく表面には出させないでせう。しかし、暗示と綜合の観念は、本質主義の堅実な調子と、近代主義の革命的色彩とに交つて、いよいよ鮮やかな舞台表現を見せるでありませう。そしてその窮極は、大いに高踏的な、貴族的な、小劇場主義と提携するか、或は壮大な、素朴な、民衆的な大劇場主義的演劇の発生を来すでありませう。この二つの傾向は、恐らく永遠に平行して存在するに違ひない。論者も亦、それを希望するのであります。
 これは単なる予想であつて、偉大なる天才の出現は、何時でも新しい時代を劃することが出来る。而もその天才は、不幸にしてその時代にはそれだけの価値を認められないといふことがある。われわれは、新しい傾向を追ふ前に、先づ自分のもの、自分の佳しとするものを作り上げなければなりません。日本の現代劇は、進む前に先づ存在せよといふ論者の主張も、そこから出発してゐる。われわれは、今浪漫的戯曲を書き、写実的戯曲を書いても、それはまだ完成への意義ある一歩たり得る時代に生れてゐる。なぜなら、日本現代劇は、何十年来、まだほんたうの芸術的作品を一つも生んでゐないと云へるからであります。西洋に於ける写実的演劇の行詰りは、「もう此の上佳いものが出ない」からである。日本では、何んと云つても、「まだ出てゐない」時代であります。現在、象徴的演劇その他の近代主義は、何れも完成された写実主義の上に築かれようとしてゐるのです。相反した傾向も、実は互に好ましい影響を与へ合つてゐる、この事は前講でも述べた通りです。西洋の写実劇が、例へば日本の現代劇になつてゐると見れば見られないこともありませんが、そして日本人として、その写実主義を脱却した新傾向を開拓することも面白いに
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