コロンビエ座、アトリエ座、ピトエフ一座、ブルュッセルのマレエ座、これらは何れも純然たる近代主義的傾向に走らず、而も芸術の進化に敏感な同情の眼を向けつゝ、徐ろに劇的本質の探究とその完全な舞台表現の工夫に努力しつゝあるのであります。
 例へば古典の演出に際して、彼の近代主義者は、これに近代的表現を与へなければ承知しない。カメルヌイ一座がラシイヌを演じた時がさうであります。希臘神話を主題とした仏国十七世紀の悲劇を、大胆にも立体派風に演出したのであります。近代主義者が古典の演出を試みる理由が、抑も疑問でありますが、それはまあ許すとして古典悲劇は古典悲劇としての美に生きるものであることが、どうしてわからないのでせう。
 また、巴里の国立劇場では、古典劇の演出に「伝統」といふものを作つてゐます。つまり、「型」に類するものである。同時に、古典の解釈は全然官学的の解釈に従つてゐる。それは芸術家の感受性を欠いたものであることは勿論である。此の「伝統」なるものは、古来の名優がそれぞれ案出した「型」に違ひないのでありますが、それはその俳優によつてのみ活かさるべき「型」であつて、今日、他の俳優がそれを真似ることは必ずしも当を得てゐるとは云へないのであります。それは俳優の個性を無視することになるからであります。これくらゐのことがどうしてわからないのでせうか。
 そこで、古典の演出は、古典そのものゝ美を、演出者の優れた趣味と感性による、自由にして新鮮な表現に盛ることである。これは何人かによつて企てられなければならなかつたのであります。
 これだけのことで、もう「本質主義」の特色が明かになつたことゝ思ひますが、なほ、上演目録選定の上に、見逃すことの出来ない一着眼点は、一つの作品が、思想的に又は審美学的に、劃時代的な何物かを有つてゐるために、所謂傑作と称せられてゐる場合、それは必ずしも採択の主要条件とはならないのであります。それより、同じ作者のものでも、「戯曲として完成されたもの」「戯曲としての魅力に富むもの」、つまり演劇それ自身のために好ましい要素を多分に含んでゐるものを、先づ選ばうとするのであります。何は無くとも、これだけあれば演劇になる――さういふものを、先づ見出さうとしてゐるのであります。そして、それだけを先づ、完全に舞台化しようとしてゐるのであります。
 前章『演劇の本質』に於て述べたこ
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