とわかり悪いかも知れません。もつと卑近な例を挙げれば、芸術そのものは「火」のやうなものであります。作品は「燃焼物」であり、鑑賞者は「熱」である。「燃焼物」にもいろいろあるやうに、「熱」にもいろいろある。或る「燃焼物」が、或る「熱」に会つて始めて「火」を発するやうに、或る「作品」も或る「鑑賞者」を俟つて始めて「芸術的価値」を生ずるのであります。
 とんだ芸術論になりましたが、この考へ方は、演劇といふ芸術形式を決定的に否定するものゝやうに思はれるのみならず、少くとも、大劇場主義の根柢に大きな不安を投入するものであります。
 しかし、これは、「美的感情」の極めて厳密な分析の上から立論した場合のことであつて、「芸術美」が「通俗美」または「自然美」から区別される一点に、それほど重きを置かないならば、演劇の芸術的存在も、固より、左程、悲観さるべきものではないのであります。それと同時に、演劇のみがもつ一種の牽引力が、偉大な舞台芸術家によつて、極度の抱擁性を与へられ、何時か大劇場主義者の夢想を実現する日が来ないとも限りません。「民衆」は当《まさ》にその日を待つべきであります。

       (二)本質主義と近代主義

 芸術上の近代主義(モデルニスム)とは、あらゆる既成美学への挑戦であり、伝統の破壊運動であり、新奇と自由の探究であり、客観より主観への突入であります。
 未来派、立体派は既に輝やかしい歴史を有つてゐる。ダダイスムは漸次其の勢力を拡大しつゝある。表現主義の消長も社会的現象と関聯して一つの芸術的存在と認め得べきものである。その他何々主義、その他何々派、そして遂に近代主義は、これらの諸分派を一丸として、堂々、今日の芸術界を濶歩してゐるのであります。
 演劇も、勿論近代主義の洗礼を受けずにはをられない。ただ種々の条件から、その歩みが遅々として目立たないだけである。その中で、兎も角も独逸の表現派、露西亜のカメルヌイ劇団、仏蘭西の「アール・エ・アクション」などは、演劇をして近代主義の運動に参加させた顕著な例であります。
 演劇のみとは限らないが、此の近代主義と一見相容れないものゝ如く思はれる傾向が、これも現代の芸術界に一面の勢力を植ゑつゝある。即ち復古主義である。原始芸術の讃美である。古代並に中世への顧望である。異国殊に未開への憧憬であります。
 然しながら此の傾向は、決して近
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