フイリユウジョン乃至|想像《イマジネエシヨン》と相俟つて、一つの陶酔境を実現する、そこまで行けばいゝのであります。
この演劇の本質は、所謂「気分劇」といふやうなものにのみ当て嵌めて考へられ易いのですが、それは偶々、此の種の「劇」が思想的背景とか、心理解剖の鋭さとか、事件の興味とか、機智の閃きとか、さういふ特殊な内容から遊離した戯曲の一面を代表してゐるからで、戯曲としてその本質的な部分が最も強調され、露出されてゐる結果、何人もその点以外に興味を繋ぐことが出来ないからであります。然しこれだけで「気分劇」が劇として上乗なものであり、最も芸術的なものであるといふ理由にはならない。人生の真理は決して「気分」だけによつて、物語られるものではありません。「本質」といふものは、常にそれ自身、或るものを形造る上に「必要」なものであつて、而もそれだけで「十分」なものではないのであります。本質をして優れた本質たらしむるものは、そこに「加へられるもの」であることを忘れてはなりません。此の意味で悲劇可なり、喜劇可なり、悲喜劇可なり、笑劇可なり、また思想劇可なり、心理劇可なり、社会劇可なり、諷刺劇可なり、史劇可なり、神秘劇可なり、夢幻劇可なり、更に浪漫劇可なり、写実劇可なり、象徴劇可なり、表現派劇可なり、詩劇可なり、散文劇可なり、序に野外劇可なり、立廻り劇可なり、翻訳劇可なり(何といふ出鱈目な名称!)。
たゞ、不可なるものは、劇の本質を無視したイカモノ劇であります。劇的生命のない骸骨劇であります。その中では、思想も心理も、事件も機智も、何もかも、たゞ「それだけの興味」しかない。文学にはなるかも知れません、が戯曲にはならない。演劇にはならないのであります。
こゝで一つ、考へて見るべきことがあります。考へなくても判つてゐればこれに越したことはありません。それはこゝに一人の傑れた小説家がある。偶々戯曲を書いた。その戯曲は戯曲として大きな本質的の欠陥を蔵してゐる。こゝに多くの平凡な劇作家がある。絶えず戯曲を書いてゐる。それらの戯曲の一つを取つて見れば、平凡ではあるが兎に角戯曲になつてゐる。此の二つの戯曲が同時に上演された。上演されなくてもいゝ。此の二つの戯曲を同時に読んだ。そして、此の小説家の書いた戯曲が、劇作家の書いた戯曲よりも面白く、美しく、人を撃つ力があり、芸術的魅力に富んでゐる。かういふ
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