ェ如何なる人物を描いてゐるかといふこと、その人物が如何に描けてゐるかといふことは、その実、切り離すことの出来ない問題でありながら、これは、或る程度まで別々に論ぜられないことはない。
そこで、俳優はまづ作者が如何なる人物を描かうとしたかについて、はつきりした観念をもつてゐなければならない。これが演出批評の主眼点になるのであります。
作者が描かうとした人物と、俳優が扮してゐる人間との間に、或る隔りが生じるのは已むを得ないとしても、その隔りが如何に大きいか、そしてそれがどうして出来たか、これを見逃しては演出の批評は出来ない。
これがつまり、俳優の演技に二つの重要な基準を与へる動機になるのであります。
即ち、先づ作中の人物を理解すること、そして、その人物を自分の理性に当て嵌めて、それを活かす、肉体化する(Incarnation)こと、この二つの努力から、俳優の演技一切が生れる。
処で、俳優の技芸論は、別にこれをする機会があらうと思ひますが、こゝで戯曲の演出といふ問題を一層はつきりさせて置くために、そして芸術としての演劇を、単なる娯楽としての演劇から区別するために、俳優の最も意を用ひなければならない点は、あくまでも戯曲の本質からのみ、一切の舞台効果を挙ぐべきことであります。
これはもう、一つの戯曲を、一人の人物を如何に演ずるかといふ問題ではなく、優れた戯曲の中に常に見出し得る生命の韻律、此の韻律に対して最も敏感であると同時に、一つの白《せりふ》、一つの科《しぐさ》、一つの姿勢、一つの動作、それが、決して或る「やま」に到達すべき径路ではなく、此の韻律の一モオメントを形造る、貴重な要素であることを知つてゐることであります。
此の韻律といふ語は、演劇に関して屡々、音楽のそれと混合され、白を音楽的ならしめる必要が説かれました。その結果、俳優の音声を歌劇に於ける歌手のそれと一致させ、甚しきは音階によつてこれを規整し得るものと信じてゐる人さへあります。これは寧ろ滑稽な誤りで、戯曲のもつ韻律といふものは云ふまでもなく官覚的のそれではなく、全然心理的の韻律であります。そして、此の心理的の韻律が、自然に、俳優の白及び科を規整するので、それ以外に、官覚的美感を求めようとすれば、それは、舞台効果の統一上、却つて弊害があると云はなければなりません。たゞ、俳優の音声が、それ自身に具へて
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